過剰に成長しようとがんばる自己実現社会の息苦しさ、いびつさ

コロナ禍のいまはわからないですが

コロナ前に見た情報では

いまは自己実現社会である。

 

だからマーケティング

個々人の自己実現を叶えるための

情報・サービス展開にいっている。

 

みたいな話を見て。

 

以前の自分も

メンタル的な弱さを解決した(と思っていた)後

「いままで抑え込んでいた本当にやりたいことをやろう」

「自分の夢を叶えていこう」

とガンバッて奔走していた時期があったのですが。

 

それでも

バーンアウトが起こったり

結局長期的な行動に結びつかなかったり

「あれ……なんかおかしくない……?」

と思うことが多々あり。

 

いまは本当に自分が求めていたものが手に入って

幸せだなあ、と思える状態にいるのですが。

 

マズローさんという方が唱えた

5段階欲求説というのがあり。

(批判もあるみたいですが)

 

人間の欲求は

 

「生理的欲求」

「安全の欲求」

「社会的欲求」

「承認欲求」

自己実現の欲求」

 

という風に階層化していて

低次の欲求が満たされて次の欲求を満たすために

動いていくんだそう。

 

水やごはんが食べたい、寝たい

という生理的欲求がまずあり

そこから順次欲求を満たしていって

最終的に自己実現へと向かっていく

という説。

 

 心理セラピーの人の記事を読んでいると

「自分のやりたいこと探し」

「自分に向いた仕事探し」

「自分の夢探し」

「やりたいことをやろうと奔走」

しているけれど

「なんかおかしいなあ……」

「なんか生きていてつらい……」

と悩んでいる人は

 

実は対人関係の悩みを抱えていたり

自己肯定感が低くてそれを満たすためにガンバッていたり

本人が自覚していない悩みを

根底に抱えていて

それをどうにかしたくて

本当は奔走している

ということがあるそう。

 

「やりたいことがなくてずっと悩んでいる」

「やりたいこと探し」に奔走している人も

恋人ができたり

結婚すると

ピタッとそれがおさまる例があるそう。

 

つまり

「やりたいこと探し」の

根幹にあった欲求というのは

恋人がほしい、結婚したい

自分に見合ったパートナーがほしい

ということだったということ。

 

また

「やりたい仕事がわからない」

「何度も転職を繰り返してしまう」

という人の中には

実は対人不安があって

本当は人とうまく関わっていきたいけれど

うまく関わることができない。

だから仕事の選択肢がせばまったり

同じところにずっといることができなくって

人間関係を刷新するように断ち切るように

仕事をすぐやめてしまう

なんてことがあるそう。

 

本人は

「やりたい仕事さえわかれば」

「やりたい仕事にめぐりあえれば」

と思い込んでいるけれど

実は対人不安に問題の根幹があるから

たとえ自分に適した仕事に就くことができたとしても

また同じことを繰り返してしまう。

 

また

「チッ、ここにいるやつらは

のほほんとしていてやる気がねえなぁ……」

もっとがんばる系、ひた走っている系の人たちがいる

環境で働きたい、活動していたい

と思っている人は

 

パッと見はやる気があって

がんばっていてスバラシイと

見えるけれど

 

実は

「このままの自分じゃダメだから」

「もっとすばらしいスキル・経歴があれば

いままでの負け犬人生に終止符が打てるんじゃないか」

「いまの自分じゃない何者かになればみんなから認められるのでは」

「世界のどこにも居場所がないという飢餓感も癒えるのでは」

自己肯定感が低いことが原因で

いまの自分を違う存在に変えようと奔走していたりする。

 

「成功者の何%の人はこうしています」

「人生で成功したくありませんか?」

などの文言に惹かれたりする。

 

じゃあそもそも成功ってなんなの?

っていうと

 

その人の中にある成功

そもそも広告などで謳われている成功というのは

「社会的に認められること」

「まわりの人からスゲーって思われること」

「『珍しいことしていますね』とほめそやされること」

「『高額の収入を得ている』ことを周りに示してスゲーって思われること」

だったりする。

 

承認欲求。

 

だから

学生時代までだったら

「○○やってるの? スゴーイ!!」

「がんばって! 応援してる!!」

「そんなことやっているなんて珍しいね!」

「カッコイー!」

なんて周りから言ってもらえてちやほやされる機会も多いけれど

 

じゃあ実際に

「これがワイのやりたいことなんや!」

とそれを仕事にしてみると

それをするのが当たり前の基準として求められるから

誰からもほめられない、認められない。

だから本来的欲求である

「周りからほめられる、注目される」

という願望が果たせずにやる気がダウンする。

 

一人で黙々とそのスキルを上げようとガンバろう

としてもガンバれなかったりする。

 

でも、自分では

「その行為、職業自体が自分のやりたいこと」

だと思い込んでいるから

「なんでやりたいことをやっているのに

やる気が出ないんだろう???」

「なんでなんで???」

と悩みのるつぼに入ってしまう。

 

承認欲求を満たすために行動するのが

悪い、というわけではなく

 

本来的な欲求が

「まわりからちやほやされたい」

「スゲーって一目置かれたい」

だったとしたら

それを自覚していないと

本来的な欲求とズレた行動をして

苦しむことになりやすいということ。

 

 

また

「やりたいことが仕事という枠の中にある」

と思い込んで行動していると

苦しむことになるパターンもある。

 

「将来何がしたいの?」

「やりたいことって何?」

という質問の先に求められる答えというのは

だいたい何らかの職業名だったりする。

 

だから

「自分のやりたいこと・夢というのは

仕事の中にあるんだ」

という思い込みが形成されやすい。

 

「夢を仕事に」

なんていう広告に踊らされて

「夢っていうのは仕事にできるものなんや!」

という思い込みができてしまう。

 

けれど

そもそも

「仕事がしたくない」

「やりたいことは無職です!(`・ω・´)キリッ」

という人も存在する。

 

また

自分のやりたいことが

「仕事にするレベルまで好きではない」

「マネタイズするほどまでやりたいことではない」

「趣味の範囲内でやっている分には好き」

「毎日やりたいわけでも

一回に長時間やりたいわけでもない」

という場合だと

自分のやりたいことを仕事に求めようとしたり

仕事に落とし込もうとすると

つらくなってくる。

 

好きだったことも好きじゃなくなってくる。

 

自分がその行為をするのが好きだ・居心地がいい

と思えるのは

どのくらいの時間、状況なのか

自分の感覚と対話するのではなく

自分の外側からの要請に求めて行動するようになるから。

 

また

そもそも自分のやりたいことが

「だらだらのんびりと過ごすこと」

「家族と時間を過ごすこと」

「友達とワイワイはしゃぐこと」

だった場合

仕事の中にやりたいことが存在しないから

「やりたいこと探し」をしても見つからずに迷子になる。

 

そういう場合は

仕事は生活のためと割りきって

なるべく自分のやりたいことに割ける時間や

心の余裕を増やせるように

ラクな仕事を選んだり

定時で帰れる仕事を選んだり。

 

そうした方がその人にとって居心地の良さが増したりする。

 

 

「本当にやりたいことをやれる人生」

「自分の好きなことに割ける時間が多い人生」

「自由に生きられる人生」

を送れるようになるために

「マネタイズをして働かなくても済むようにしましょう」

という文言に心が揺さぶられて

じゃあ

「マネタイズをがんばろう!」

と思って行動したとして。

 

そもそも

何らかの行為をマネタイズする

自動的に収入が入る仕組みをつくる

という行為自体がつらくて

メンタル的にまいってしまっていたとしたら

 

「マネタイズしなければ自由になれないんだ」

という思い込みにとらわれて

心の自由が蝕まれていく。

 

 

その人にとっての

居心地のよさ

というのが一番大事になってくる。

 

「誰かがそう言ったから」

「実際に自分のやりたいことができている人がそう言っているから」

「スゴイ人がそう言っている」

からと言って

それが丸ごと自分に合っているとは限らない。

 

行動やマインドセットの一部を

取り入れることによって自分が良い方向に向かったとしても

その人自身に成り代わるレベルまで

その行為をしたからといって

自分が居心地の良い状態に至れるとは限らない。

 

「自分はどういう人間なのか」

「自分はどういうときどんなことを感じる人間なのか」

「どういうときにどのくらいのレベル嫌だと感じて

どういうときに心の奥底があたたかくなる感覚になるのか」

という自己との対話がものすごく大事になってくる。

 

けれど

「自分のやりたいことをやっている」と

自分で思い込んでいて

過剰にガンバりすぎている場合

自分がスゴイと思う人が「やると良い」と言ったことを

その人に成り代わるレベルまで過剰にガンバッやってしまう場合

「自分なんかダメなんじゃないか」

という自己肯定感の低さが根ざしていたりする。

 

自分の感覚を信じ切ることができないから

誰かが良いと言ったことにすがろうとする。

 

 

自分の感情、欲求を抑え込みすぎて

そもそも

「自分のやりたいことがわからない」

状態になってしまっている人もいる。

 

そういう人は

「いま自分は何を食べたいのか」

というところから

始めて見ると

少しずつ自分の感覚を取り戻せるかもしれない。

 

「自分のやりたいことがわからなくなっている」

人の場合

「いまの自分が食べたいと思うものを食べる」

という小さな行為をする場合であっても

 

「体に悪いから」

「添加物が多いから」

「値段が高いから」

「どうせちょっとすれば別のものが手に入るから」

「どうせ少ししか食べれないし」

という無意識的な判断で

「いまこれが食べたい・飲みたい」

という自分の欲求を流してなかったことに

していたりする。

 

幼少期から続く親子関係で

「そんなの身体に悪いでしょ」

「そんな高いものだめよ」

「こっちの方が安いでしょ」

「どうせ家に帰ったらアレがあるんだから

いま買う必要なんてないでしょ」

「またこんなに残して!

だったら食べたいなんて初めから言うんじゃないわよ!」

という対話が繰り返しされることによって

 

自分の欲求をないがしろにされて

外側の価値観を優先され続けて

「どうせ自分のやりたいことを主張しても無駄だ」

「自分の欲求を表現しない」

「自分の欲求を感じないようにする」

という方に適応してしまっていたりする。

 

欲求を強く感じているのに

それが叶わない現実に触れ続けるのがつらすぎるから

元から存在しないもののように扱ってしまう。

 

そうして

表情が死んでいく。

感情が死んでいく。

「自分は何も感じない人形みたいな人間だ」

と思い込むようになる。

 

けれど

本当は心の奥底になかったことにしていた

「本当はこうしたかったのに」

「本当はこうしたいのに」

というのはたくさんあって

 

抑え込むことが降り積もっていくと

 

「自分は何も感じない人形みたいな人間のはずだ」

「そうだったはずなのに――」

 と

なんらかの心身の変動が出てくる。

 

 

バーンアウトだったり

メンタルのアップダウンだったり。

 

「本当はこう感じているんでしょ?」

と自分の内側からノックされる。

 

「自分のやりたいことってなんだろう」

というのは

「自分が居心地が良いと感じるのは何だろう」

「自分が居心地が良いと感じるのはどういうときだろう」

ということ。

 

自分のやりたいことをやっているはずなのに

苦しさにさいなまれて居心地が悪い場合

自分じゃない何者かの価値観に呪縛されて

突き動かされていたりする。

 

一番大事なのは

自分がホッと息をつけるような

居心地の良さを感じられること。

 

 

そう思った。

 

ただそれだけ。