つい人のことを見下してしまう人というのは……

人のことをつい

いつも見下してしまう人も

ときどき見下してしまう人も

そんなことないよ、という人も

こんにちは。

 

UFOキャッチャーやったら

一日に3つも景品がとれて叫びまくった管理人です。

(うち2つは1発どりで感動!!!)

 

みなさんは

ついつい人のことを見下してしまうことって

ありますか?

 

最近、人を見下してしまう人の心理について

ふつらふつらと考えていたのですが。

 

人のことを見下す人

というのは根幹に

自分自身に対する自信のなさがあって

自分に対して厳しい評価を下しがちなのかなあ、と。

 

そして

そもそもなんで

そうなってしまうかというと

自分の外側に存在する基準に対して

善悪論で動いているからなのではないかと。

 

そんなことを思いました。

 

そして、人のことを見下しているときというのは

だいたい自分がそれをできていなかったり

実際に行動していなかったりする。

 

 

自分ではそんなつもりなくても

ふとした瞬間に相手を馬鹿にするような発言が出たり

心の内側で

「なんでこんなこともできないかなあ。

もっとこうすればいいでしょ」

と、自分でできないし行動もしていないのに

人に対しては思ってしまう。

 

良いことをしている人を見ると

「おお、よくやってるじゃん」

と上から目線で評価。

 

はたから見て

「自分もできてないのにナニ言ってんだコイツ」

「自分ができてから言えよなあ……」

「この人自分ができてない自覚ないのか?」

 

と思ってしまう人

まわりにいませんか?

 

 

というのも、昔の自分がそうだった(!!)

 

 

 

キャーハズカシイッ!!!

 

でもでも

昔の自分を思い返すと本当にそんなヤツでして。

 

若気の至りだと思えばいいのかな

とも思いますが。

 

周りの人間よりも自分はできる

ちょっと特別な存在だと思っていて

自尊心はやたらと強いのに

ものすごい自分に対して自信がなくて

なかなか自分は行動しない。

 

自分の元々のパーソナリティと

家庭環境が重なり合った結果生まれたトラウマが原因

というのは今だったらわかりますが。

 

その当時、というより昔全般

自分の中に不動のものとしてあった価値観というのは

「どうするのが正解なの?」

「こうするのが良いの? こっちは悪いの?」

というものだった。

 

つまり

自分の外側の価値観に対して

それに対して自分の感情や考え方、行動、生き方は

「合っているのか」

「良いものなのか」

「正しく評価されるものなのか」

ということを

無意識にずっと考え続けていた。

 

もうちょっとぼやぁっと広げると

「人からどう思われるか」

に過剰に振り回されていたとも言えるかもしれません。

 

人から良く思われる

認められる、馬鹿にされないためには

こうするのが

「良いの? 悪いの?」

と善悪論で考えて行動。

 

 

昨今は

瞑想、マインドフルネスブームがありますが。

 

 

「できるビジネスパーソンはみんな瞑想やっています」

「成功者はマインドフルネスをやっていた」

なんて情報を見たときに

 

「瞑想をすることが『良いこと』なんだ!

じゃあ、やろう!!!」

 

と思って行動するのは良いのですが

 

自分に自信がなくて

自分の外側の基準の価値観で動いてしまう人と言うのは

 

「瞑想している状態の自分は『良い』んだ」

という価値観で動いてしまう。

 

「瞑想している状態の自分は『良い』んだ」

と思っているということは

「瞑想しないことは『良くないこと』なんだ」

という思いを形成するのと同じこと。

 

だから

「瞑想をしなくなった自分は『悪い』」

から

過剰に自分を追い立ててその行為を続けようとしたり

何かのきっかけでその習慣が消えたら自分のことを責めたり

 

「瞑想している人たちは『優秀』なんだ」

から

「瞑想していない人たちは『優秀じゃない』んだ」

周りの人間を見下す態度が形成されやすくなってしまう。

 

ふとしたきっかけで自分がその行為をできなくなると

いままで見下してきた

『優秀じゃない』人たちのカテゴリに自分が入ってしまう。

 

自分がいままで見下してきた人たちの範囲に自分が入って

過剰に自分を責め立てたりしてしまう。

 

自分の外側の価値観に対して善悪論で動くと

自分の内側の声を無視しがちになるから

どっかで生きづらさが出てくる。

 

 

「自分は瞑想やりたいんだ、したいんだ」

と思っていても

実際の心の声と言うのは

「(瞑想をやるのははっきり言ってつまらないし

いまやるのはめんどくさい、けども)

瞑想をやるのは『良い』ことだから、やりたい」

だったりする。

 

前半の心の声が完全無視状態だったりする。

 

前半の

「めんどくさい」

「やりたくない」

思いを上回って「やりたい」

ことだったら楽しめる。

 

けれども生きづらさを感じている人は

「やりたい」感情以上に

「めんどくさい」

「やりたくない」

が明らかに強い状態なのに

無理やりやっていたりする。

 

 

バーンアウトなんていうのも

 

昨日までの自分はたしかにそれをやって

楽しめていたのかもしれないけれど

 

今日の自分はそこまでその行為を

「やりたくない」と思っているのに

 

「自分はこの行為をやりたいと思っているはずなんや!」

とできなくなっている状態がおかしい

と思うからおかしなことになってしまうだけ。

 

今日の自分、いまの自分というのは

その行為を、そのレベル、その時間の長さで

やりたくなかったと

ただそれだけのこと。

 

 

自分の内なる声ははっきりと主張しているのに

頭の判断で

「こうできなきゃおかしい!」

「ここまでするのが良いことだからやらなきゃ!」

無理に自分を動かそうとするから

自分がパンクしてしまう。

 

 

だから

とにもかくにも

自分の内側の世界観をはっきりさせとく

というのが大事なのかな、と。

 

自分の内側の世界観の中には

良いも悪いも存在しない。

 

自分はそれをするのが

好きなのか嫌いなのか。

ただそれだけ。

 

でも、いままでずっと

外側の善悪論で動いてきた人は

自分が本当はやりたくないことも

「私これをするのが好きだからやっているんです」

と思い込んでいたりする。

 

だから

「好きなはずなのにつらい……」

となってしまったりする。

 

特に昔からイイ子ちゃんだった

優等生ちゃんに多い。

 

自分の親や学校の先生や友達から

「優秀」「イイ子」と評価をされる行為を

無意識に選択して行動するのが癖になっているから

 

「優秀」「イイ子」と評価をされる行為を

「自分のやりたいことなんや!」

と思い込んでいたりする。

 

だから

好き嫌いよりも

自分が

心地よく感じるのか、居心地悪く感じるのか

ということを大事にしていくと

自分の世界観が少しずつ取り戻していける。

 

「好きなはずなのにやっていてつらい……」

ならそれは

自分以外の何者かの価値観に突き動かされている可能性がある。

 

つらいということは

自分の居心地が悪いということ。

 

だから今の自分はそれをやりたくない

ということ。

 

本当はそこにいたくない、ということ。

 

 

自分が居心地よく感じるのか

そうでないのか。

 

ただ、それだけのこと。

 

 

そう思った。

 

ただ、それだけ。