「竜とそばかすの姫」を見てきた!泣いた!Bellステキ!しのぶくんカッコイイ!!

映画を

観る人も

あまり観ない人も

こんにちは。

 

果実入りのチョコにハマっている管理人です。

 

本日

映画「竜とそばかすの姫」を

見てきました!!!

 

泣いた!

 

親の愛とか

銀河鉄道の夜的な無償の愛が描かれているのかな

と。

 

なんでかわからないけど

泣いた!!

 

Bellのキャラデザステキだな(♡▽♡)

と思っていたら

アナ雪などのディズニー作品のキャラデザを手がけた

有名な方がデザインしたそう。

 

歌うときのファッションも素敵だなあ

と思っていたら

相当力を入れてつくったみたい。

 

オープニングで流れる

Bellが歌う曲も

ふしぎな感じで性癖に刺さった。

映画パプリカのパレードに似たような雰囲気を感じた。

 

そして

主人公の幼馴染の

しのぶくんなる男の子が

好み過ぎた(*'ω'*)

 

寡黙でミステリアスで

モテモテだけど

主人公と幼馴染。

ちょくちょく主人公を気にかける。

 

「しのぶ! お前主人公のことどう思ってるんだよ!

想ってるのか!? 思っているだけなのか!!!?」

 

と観終わったあとで

一緒に見た人に思いのたけをぶつける。

 

しのぶくんと主人公で

妄想がとまらずに

映画が終わったあとの妄想ストーリーを

思い切り喋りまくる。

 

一緒に見た人に鼻で笑われる。

 

テンプレみたいな

恋愛の妄想が好きなんだよ!!!

 

 

「この映画が好きか?」

と聞かれるとよくわからないし

もやもやも感じる作品だけど

随所の表現がふつくしい

Bellの見せ場は相当考えて力入れてつくったんだろうなあ

と、性癖に刺さる。

 

好きかわからんけど

なんか泣いてたし。

 

一緒に見ていた人も泣いたと言っていた。

 

ミュージカル化してくれないかな、と期待。

 

人生で一度も買ったことのない

パンフレットも買ってしまった!

(パンフレットという概念を知ったのが最近)

 

 

帰り道で寄ったクレーンゲームで

Bellのぬいぐるみがあったので

取ろうとしたのですが

できなかった!!!

 

アームの力が弱い!グギギギギ!!!

 

自分でつくったろか!!!

エナジー

 

 

では、また次回。

つい人のことを見下してしまう人というのは……

人のことをつい

いつも見下してしまう人も

ときどき見下してしまう人も

そんなことないよ、という人も

こんにちは。

 

UFOキャッチャーやったら

一日に3つも景品がとれて叫びまくった管理人です。

(うち2つは1発どりで感動!!!)

 

みなさんは

ついつい人のことを見下してしまうことって

ありますか?

 

最近、人を見下してしまう人の心理について

ふつらふつらと考えていたのですが。

 

人のことを見下す人

というのは根幹に

自分自身に対する自信のなさがあって

自分に対して厳しい評価を下しがちなのかなあ、と。

 

そして

そもそもなんで

そうなってしまうかというと

自分の外側に存在する基準に対して

善悪論で動いているからなのではないかと。

 

そんなことを思いました。

 

そして、人のことを見下しているときというのは

だいたい自分がそれをできていなかったり

実際に行動していなかったりする。

 

 

自分ではそんなつもりなくても

ふとした瞬間に相手を馬鹿にするような発言が出たり

心の内側で

「なんでこんなこともできないかなあ。

もっとこうすればいいでしょ」

と、自分でできないし行動もしていないのに

人に対しては思ってしまう。

 

良いことをしている人を見ると

「おお、よくやってるじゃん」

と上から目線で評価。

 

はたから見て

「自分もできてないのにナニ言ってんだコイツ」

「自分ができてから言えよなあ……」

「この人自分ができてない自覚ないのか?」

 

と思ってしまう人

まわりにいませんか?

 

 

というのも、昔の自分がそうだった(!!)

 

 

 

キャーハズカシイッ!!!

 

でもでも

昔の自分を思い返すと本当にそんなヤツでして。

 

若気の至りだと思えばいいのかな

とも思いますが。

 

周りの人間よりも自分はできる

ちょっと特別な存在だと思っていて

自尊心はやたらと強いのに

ものすごい自分に対して自信がなくて

なかなか自分は行動しない。

 

自分の元々のパーソナリティと

家庭環境が重なり合った結果生まれたトラウマが原因

というのは今だったらわかりますが。

 

その当時、というより昔全般

自分の中に不動のものとしてあった価値観というのは

「どうするのが正解なの?」

「こうするのが良いの? こっちは悪いの?」

というものだった。

 

つまり

自分の外側の価値観に対して

それに対して自分の感情や考え方、行動、生き方は

「合っているのか」

「良いものなのか」

「正しく評価されるものなのか」

ということを

無意識にずっと考え続けていた。

 

もうちょっとぼやぁっと広げると

「人からどう思われるか」

に過剰に振り回されていたとも言えるかもしれません。

 

人から良く思われる

認められる、馬鹿にされないためには

こうするのが

「良いの? 悪いの?」

と善悪論で考えて行動。

 

 

昨今は

瞑想、マインドフルネスブームがありますが。

 

 

「できるビジネスパーソンはみんな瞑想やっています」

「成功者はマインドフルネスをやっていた」

なんて情報を見たときに

 

「瞑想をすることが『良いこと』なんだ!

じゃあ、やろう!!!」

 

と思って行動するのは良いのですが

 

自分に自信がなくて

自分の外側の基準の価値観で動いてしまう人と言うのは

 

「瞑想している状態の自分は『良い』んだ」

という価値観で動いてしまう。

 

「瞑想している状態の自分は『良い』んだ」

と思っているということは

「瞑想しないことは『良くないこと』なんだ」

という思いを形成するのと同じこと。

 

だから

「瞑想をしなくなった自分は『悪い』」

から

過剰に自分を追い立ててその行為を続けようとしたり

何かのきっかけでその習慣が消えたら自分のことを責めたり

 

「瞑想している人たちは『優秀』なんだ」

から

「瞑想していない人たちは『優秀じゃない』んだ」

周りの人間を見下す態度が形成されやすくなってしまう。

 

ふとしたきっかけで自分がその行為をできなくなると

いままで見下してきた

『優秀じゃない』人たちのカテゴリに自分が入ってしまう。

 

自分がいままで見下してきた人たちの範囲に自分が入って

過剰に自分を責め立てたりしてしまう。

 

自分の外側の価値観に対して善悪論で動くと

自分の内側の声を無視しがちになるから

どっかで生きづらさが出てくる。

 

 

「自分は瞑想やりたいんだ、したいんだ」

と思っていても

実際の心の声と言うのは

「(瞑想をやるのははっきり言ってつまらないし

いまやるのはめんどくさい、けども)

瞑想をやるのは『良い』ことだから、やりたい」

だったりする。

 

前半の心の声が完全無視状態だったりする。

 

前半の

「めんどくさい」

「やりたくない」

思いを上回って「やりたい」

ことだったら楽しめる。

 

けれども生きづらさを感じている人は

「やりたい」感情以上に

「めんどくさい」

「やりたくない」

が明らかに強い状態なのに

無理やりやっていたりする。

 

 

バーンアウトなんていうのも

 

昨日までの自分はたしかにそれをやって

楽しめていたのかもしれないけれど

 

今日の自分はそこまでその行為を

「やりたくない」と思っているのに

 

「自分はこの行為をやりたいと思っているはずなんや!」

とできなくなっている状態がおかしい

と思うからおかしなことになってしまうだけ。

 

今日の自分、いまの自分というのは

その行為を、そのレベル、その時間の長さで

やりたくなかったと

ただそれだけのこと。

 

 

自分の内なる声ははっきりと主張しているのに

頭の判断で

「こうできなきゃおかしい!」

「ここまでするのが良いことだからやらなきゃ!」

無理に自分を動かそうとするから

自分がパンクしてしまう。

 

 

だから

とにもかくにも

自分の内側の世界観をはっきりさせとく

というのが大事なのかな、と。

 

自分の内側の世界観の中には

良いも悪いも存在しない。

 

自分はそれをするのが

好きなのか嫌いなのか。

ただそれだけ。

 

でも、いままでずっと

外側の善悪論で動いてきた人は

自分が本当はやりたくないことも

「私これをするのが好きだからやっているんです」

と思い込んでいたりする。

 

だから

「好きなはずなのにつらい……」

となってしまったりする。

 

特に昔からイイ子ちゃんだった

優等生ちゃんに多い。

 

自分の親や学校の先生や友達から

「優秀」「イイ子」と評価をされる行為を

無意識に選択して行動するのが癖になっているから

 

「優秀」「イイ子」と評価をされる行為を

「自分のやりたいことなんや!」

と思い込んでいたりする。

 

だから

好き嫌いよりも

自分が

心地よく感じるのか、居心地悪く感じるのか

ということを大事にしていくと

自分の世界観が少しずつ取り戻していける。

 

「好きなはずなのにやっていてつらい……」

ならそれは

自分以外の何者かの価値観に突き動かされている可能性がある。

 

つらいということは

自分の居心地が悪いということ。

 

だから今の自分はそれをやりたくない

ということ。

 

本当はそこにいたくない、ということ。

 

 

自分が居心地よく感じるのか

そうでないのか。

 

ただ、それだけのこと。

 

 

そう思った。

 

ただ、それだけ。

日記を振り返ってみて自分が成長したことに気がつく

たまたま以前書いた自分のブログ記事を

読み返していたのですが

 

「え、こんなことで悩んでいたのか!?」

「いまだったら全然気にしてないのに」

という内容が色々あふれていた。

 

たしかこのブログは

ニート(かフリーター)のときに

アフィリエイトブログやってみっか」

とブログを乱立しては消していた時期に始めた記憶があり。

 

「自分には真面目にコツコツ

戦略立ててブログなんてムリや……」

たまたま生き残った

雑談日記。

 

いまの仕事に就く前と後の

メンタル状態のビフォーアフター

おもしろいなあ、と。

 

「自分こんなにメンタル弱々だったんだね」

とちょっとほろりと。

 

自分自身のこととか当時の現状を変えたくて

あがいて色々な人と関わろうとしたり

心理セラピーを受けたり

色々な精神的な呪縛に気がついたり。

 

「そんな弱弱しい繊細メンタルでいままで

がんばって生きてきたんだなあ」

とほろり。

 

いまだったらそんなに過剰に気にしなくていいのに

と言えるけれど

昔の自分の感受性では

そういう風にしか世界をとらえられなかったし

そう言う風にしか生きられなかった。

 

「人の集団の中で喋るのが無理だった」

という言葉を見て

「え、そうだったっけ!?」

 

「電話応対とかムリ」

という言葉を見て

「たしかに苦手だけど今フツーにやってる!!」

 

「自分はがんばりたくない人間だと気がついて(ry」

という言葉を見て

「いや自分ちっさい頃からそうだったやろうが。

中学、高校とか地でそんな感じやったやろ。

漫画とネットとアニメとラノベが生活要素の大部分やったやろ。

勉強とかテストとか嫌いやったやろ」

 

などなど

「え……自分こんなことで悩んでいたの?」

「いまの自分からだと考えられん……」

という数々の当時の悩みが色々書かれていた。

 

オゥ、ワンダフォー。

 

それだけ成長したんだなあ、と。

 

ほろ、ほろり。

 

だから、今抱えている悩みもいずれ

「こんなしょーもないことで悩んでいたのか」

と思えるようになるのかなあ、と。

 

 

では、また次回。

キクタン中国語初級の学習を再開

語学学習に

興味がある人も

そうでもない人も

こんにちは。

 

フライパンでつくる蜜芋みたいなさつまいもを

つくってみたらほくほくでおいしかった管理人です。

 

 

最近、一ヵ月ほどさぼっていた

中国語の学習のやる気が戻ってきたので再開。

 

中国語はキクタンを使って

単語学習をしているのですが

入門編は一旦完了して

いまは初級編をやっているところ。

 

その初級編に入ってから停滞して

やる気ダウンしてやらなくなっていた。

 

というわけで、スモール化して再開。

一日1課やればOK!

ついでに1週間でキリが良いように

7課までしか扱わないルールに(全部で10課あるけど)

 

スケジュール帳に予定をカキコミ。

 

前回は1日3課で、週の前半に終わらせようとする

予定組でしたが

自分にはきつかったようで一度オジャン。

 

よっぽどの差し迫った原動力がない限り

自分に負荷がかかりすぎる学習で予定を組むと

長期的な学習にはならない良い例。

 

 

実は職場で

「赤字が続いているからこの事業所ももしかしたら……

だからみんな売り上げ上げるためにオーイェアッ!!!」

と、上層部と現場の温度差がかなり激しい

緊急ミーティングという名の

一方的なスピーキングステージなるものが開かれ

「転職しようかな……」

という気持ちが湧いてきたので語学学習。

 

自分にとって語学学習は

現実逃避のためのものだったり

将来に対する不安を軽減させてくれるものなのかな、と。

 

いまいる事業所に何かあっても

現場が変わるだけなので

働き口的に差し迫っているわけではないですが。

 

猿山マウンティング並みの

お願いという名の強制が盛りだくさんで

「学習意欲を高めさせてくれてどうもありがとう」な

ミーティングでした。

 

 

ひさしぶりに英会話もやろうかな、という気分。

 

 

では、また次回。

英語の多読をスモールに再開

英語学習のモチベーションが

ある人も

ない人も

こんにちは。

 

グリーンスムージーがおいしかった管理人です。

 

 

最近、本当にやる意思が湧かなくて

英語の学習をサボりまくっていたのですが

ここ数日多読を再開いたしました。

 

といっても

仕事の休憩時間に

5~10ページ読む程度。

 

最近生活スタイルが少し変わり

いままで長時間の通勤電車があったからこそ

その時間に多読をしていたのですが

それがなくなり。

 

一ヵ月前くらいまでは

英会話をやっていたのですが

多読自体はほぼやらなくなっていた。

 

いまはレベル5、6のグレード本に

挑戦しているのですが

わかるようなわからないような読み応えです。

 

しばらく読んでいけば

いつか理解できるときがくるだろう。

というテイで読んでいます。

 

だいたいいままでのレベルも

そんな感じで

最初はわからないけど

しばらくすると理解できるようになっていたので。

 

ただ、ひさしぶりに読んだせいか

少し読んだだけで

「あ、頭が……」

という感覚に。

 

最近自分の感覚に敏感になったので

もともと負担を感じる行為だっただけ

なのかもしれないですが。

 

 

そういえば

なんで英語の多読をはじめたんだっけ?

 

ということを最近

ふと思い出したのですが

 

自分の劣等意識を埋め合わせるためだったなあ、と。

 

 

自分には人に言えるような

取柄が何もないな

と本気で思っていて。

 

だからこそ

そんな何もない自分でも

英語の多読を積み重ねていけば

長距離マラソンを走ったような達成感を得られるのではないか。

 

人に言えるような、社会的に評価されるようなスキルを

手に入れられるのではないか。

 

英語ができれば

将来の仕事選択で役に立ったり

何かが起こっても安心できるのではないか。

 

と思っていたので。

 

 

ただ、最近は

いまの仕事を通していく中で

その劣等意識も自分の思い込みだったんだ

自分は誰かのよろこびになることができる存在なんだ

と気づくことができましたし

 

自分が本当に望んでいるものを手に入れることができて

しゃにむに「英語の能力を上げよう!」

という気持ちも薄らいできました。

 

 

そんな中でも

ちょっとだけまた言語学習がしたい

という気持ちが湧いてきたので

スモールに再開。

 

元々の自分のやる気レベルは

そのくらいなんだなあ、と。

 

1日に3ページ読めたら

「めっちゃがんばったね!」

と自分に言えるようになった。

 

1日20とか30ページ読んでいたときもあったけれど

そのときはやっぱりムリしていたなぁ、と。

 

自分のレベルに合わせて

少しずつ読むページが増えていったわけじゃなくて

100万語という区切りを達成するために

無理やり読むページ数を多くしていた

という感じ。

 

だからこそ手に入れたものもあるけれど

でもやっぱりずっとつらかったなぁ、と。

 

 

と、そんな感じで

自分に対する認識が変わると同時に

英語学習の進捗も変わってきました。

 

では、また次回。

 

過剰に成長しようとがんばる自己実現社会の息苦しさ、いびつさ

コロナ禍のいまはわからないですが

コロナ前に見た情報では

いまは自己実現社会である。

 

だからマーケティング

個々人の自己実現を叶えるための

情報・サービス展開にいっている。

 

みたいな話を見て。

 

以前の自分も

メンタル的な弱さを解決した(と思っていた)後

「いままで抑え込んでいた本当にやりたいことをやろう」

「自分の夢を叶えていこう」

とガンバッて奔走していた時期があったのですが。

 

それでも

バーンアウトが起こったり

結局長期的な行動に結びつかなかったり

「あれ……なんかおかしくない……?」

と思うことが多々あり。

 

いまは本当に自分が求めていたものが手に入って

幸せだなあ、と思える状態にいるのですが。

 

マズローさんという方が唱えた

5段階欲求説というのがあり。

(批判もあるみたいですが)

 

人間の欲求は

 

「生理的欲求」

「安全の欲求」

「社会的欲求」

「承認欲求」

自己実現の欲求」

 

という風に階層化していて

低次の欲求が満たされて次の欲求を満たすために

動いていくんだそう。

 

水やごはんが食べたい、寝たい

という生理的欲求がまずあり

そこから順次欲求を満たしていって

最終的に自己実現へと向かっていく

という説。

 

 心理セラピーの人の記事を読んでいると

「自分のやりたいこと探し」

「自分に向いた仕事探し」

「自分の夢探し」

「やりたいことをやろうと奔走」

しているけれど

「なんかおかしいなあ……」

「なんか生きていてつらい……」

と悩んでいる人は

 

実は対人関係の悩みを抱えていたり

自己肯定感が低くてそれを満たすためにガンバッていたり

本人が自覚していない悩みを

根底に抱えていて

それをどうにかしたくて

本当は奔走している

ということがあるそう。

 

「やりたいことがなくてずっと悩んでいる」

「やりたいこと探し」に奔走している人も

恋人ができたり

結婚すると

ピタッとそれがおさまる例があるそう。

 

つまり

「やりたいこと探し」の

根幹にあった欲求というのは

恋人がほしい、結婚したい

自分に見合ったパートナーがほしい

ということだったということ。

 

また

「やりたい仕事がわからない」

「何度も転職を繰り返してしまう」

という人の中には

実は対人不安があって

本当は人とうまく関わっていきたいけれど

うまく関わることができない。

だから仕事の選択肢がせばまったり

同じところにずっといることができなくって

人間関係を刷新するように断ち切るように

仕事をすぐやめてしまう

なんてことがあるそう。

 

本人は

「やりたい仕事さえわかれば」

「やりたい仕事にめぐりあえれば」

と思い込んでいるけれど

実は対人不安に問題の根幹があるから

たとえ自分に適した仕事に就くことができたとしても

また同じことを繰り返してしまう。

 

また

「チッ、ここにいるやつらは

のほほんとしていてやる気がねえなぁ……」

もっとがんばる系、ひた走っている系の人たちがいる

環境で働きたい、活動していたい

と思っている人は

 

パッと見はやる気があって

がんばっていてスバラシイと

見えるけれど

 

実は

「このままの自分じゃダメだから」

「もっとすばらしいスキル・経歴があれば

いままでの負け犬人生に終止符が打てるんじゃないか」

「いまの自分じゃない何者かになればみんなから認められるのでは」

「世界のどこにも居場所がないという飢餓感も癒えるのでは」

自己肯定感が低いことが原因で

いまの自分を違う存在に変えようと奔走していたりする。

 

「成功者の何%の人はこうしています」

「人生で成功したくありませんか?」

などの文言に惹かれたりする。

 

じゃあそもそも成功ってなんなの?

っていうと

 

その人の中にある成功

そもそも広告などで謳われている成功というのは

「社会的に認められること」

「まわりの人からスゲーって思われること」

「『珍しいことしていますね』とほめそやされること」

「『高額の収入を得ている』ことを周りに示してスゲーって思われること」

だったりする。

 

承認欲求。

 

だから

学生時代までだったら

「○○やってるの? スゴーイ!!」

「がんばって! 応援してる!!」

「そんなことやっているなんて珍しいね!」

「カッコイー!」

なんて周りから言ってもらえてちやほやされる機会も多いけれど

 

じゃあ実際に

「これがワイのやりたいことなんや!」

とそれを仕事にしてみると

それをするのが当たり前の基準として求められるから

誰からもほめられない、認められない。

だから本来的欲求である

「周りからほめられる、注目される」

という願望が果たせずにやる気がダウンする。

 

一人で黙々とそのスキルを上げようとガンバろう

としてもガンバれなかったりする。

 

でも、自分では

「その行為、職業自体が自分のやりたいこと」

だと思い込んでいるから

「なんでやりたいことをやっているのに

やる気が出ないんだろう???」

「なんでなんで???」

と悩みのるつぼに入ってしまう。

 

承認欲求を満たすために行動するのが

悪い、というわけではなく

 

本来的な欲求が

「まわりからちやほやされたい」

「スゲーって一目置かれたい」

だったとしたら

それを自覚していないと

本来的な欲求とズレた行動をして

苦しむことになりやすいということ。

 

 

また

「やりたいことが仕事という枠の中にある」

と思い込んで行動していると

苦しむことになるパターンもある。

 

「将来何がしたいの?」

「やりたいことって何?」

という質問の先に求められる答えというのは

だいたい何らかの職業名だったりする。

 

だから

「自分のやりたいこと・夢というのは

仕事の中にあるんだ」

という思い込みが形成されやすい。

 

「夢を仕事に」

なんていう広告に踊らされて

「夢っていうのは仕事にできるものなんや!」

という思い込みができてしまう。

 

けれど

そもそも

「仕事がしたくない」

「やりたいことは無職です!(`・ω・´)キリッ」

という人も存在する。

 

また

自分のやりたいことが

「仕事にするレベルまで好きではない」

「マネタイズするほどまでやりたいことではない」

「趣味の範囲内でやっている分には好き」

「毎日やりたいわけでも

一回に長時間やりたいわけでもない」

という場合だと

自分のやりたいことを仕事に求めようとしたり

仕事に落とし込もうとすると

つらくなってくる。

 

好きだったことも好きじゃなくなってくる。

 

自分がその行為をするのが好きだ・居心地がいい

と思えるのは

どのくらいの時間、状況なのか

自分の感覚と対話するのではなく

自分の外側からの要請に求めて行動するようになるから。

 

また

そもそも自分のやりたいことが

「だらだらのんびりと過ごすこと」

「家族と時間を過ごすこと」

「友達とワイワイはしゃぐこと」

だった場合

仕事の中にやりたいことが存在しないから

「やりたいこと探し」をしても見つからずに迷子になる。

 

そういう場合は

仕事は生活のためと割りきって

なるべく自分のやりたいことに割ける時間や

心の余裕を増やせるように

ラクな仕事を選んだり

定時で帰れる仕事を選んだり。

 

そうした方がその人にとって居心地の良さが増したりする。

 

 

「本当にやりたいことをやれる人生」

「自分の好きなことに割ける時間が多い人生」

「自由に生きられる人生」

を送れるようになるために

「マネタイズをして働かなくても済むようにしましょう」

という文言に心が揺さぶられて

じゃあ

「マネタイズをがんばろう!」

と思って行動したとして。

 

そもそも

何らかの行為をマネタイズする

自動的に収入が入る仕組みをつくる

という行為自体がつらくて

メンタル的にまいってしまっていたとしたら

 

「マネタイズしなければ自由になれないんだ」

という思い込みにとらわれて

心の自由が蝕まれていく。

 

 

その人にとっての

居心地のよさ

というのが一番大事になってくる。

 

「誰かがそう言ったから」

「実際に自分のやりたいことができている人がそう言っているから」

「スゴイ人がそう言っている」

からと言って

それが丸ごと自分に合っているとは限らない。

 

行動やマインドセットの一部を

取り入れることによって自分が良い方向に向かったとしても

その人自身に成り代わるレベルまで

その行為をしたからといって

自分が居心地の良い状態に至れるとは限らない。

 

「自分はどういう人間なのか」

「自分はどういうときどんなことを感じる人間なのか」

「どういうときにどのくらいのレベル嫌だと感じて

どういうときに心の奥底があたたかくなる感覚になるのか」

という自己との対話がものすごく大事になってくる。

 

けれど

「自分のやりたいことをやっている」と

自分で思い込んでいて

過剰にガンバりすぎている場合

自分がスゴイと思う人が「やると良い」と言ったことを

その人に成り代わるレベルまで過剰にガンバッやってしまう場合

「自分なんかダメなんじゃないか」

という自己肯定感の低さが根ざしていたりする。

 

自分の感覚を信じ切ることができないから

誰かが良いと言ったことにすがろうとする。

 

 

自分の感情、欲求を抑え込みすぎて

そもそも

「自分のやりたいことがわからない」

状態になってしまっている人もいる。

 

そういう人は

「いま自分は何を食べたいのか」

というところから

始めて見ると

少しずつ自分の感覚を取り戻せるかもしれない。

 

「自分のやりたいことがわからなくなっている」

人の場合

「いまの自分が食べたいと思うものを食べる」

という小さな行為をする場合であっても

 

「体に悪いから」

「添加物が多いから」

「値段が高いから」

「どうせちょっとすれば別のものが手に入るから」

「どうせ少ししか食べれないし」

という無意識的な判断で

「いまこれが食べたい・飲みたい」

という自分の欲求を流してなかったことに

していたりする。

 

幼少期から続く親子関係で

「そんなの身体に悪いでしょ」

「そんな高いものだめよ」

「こっちの方が安いでしょ」

「どうせ家に帰ったらアレがあるんだから

いま買う必要なんてないでしょ」

「またこんなに残して!

だったら食べたいなんて初めから言うんじゃないわよ!」

という対話が繰り返しされることによって

 

自分の欲求をないがしろにされて

外側の価値観を優先され続けて

「どうせ自分のやりたいことを主張しても無駄だ」

「自分の欲求を表現しない」

「自分の欲求を感じないようにする」

という方に適応してしまっていたりする。

 

欲求を強く感じているのに

それが叶わない現実に触れ続けるのがつらすぎるから

元から存在しないもののように扱ってしまう。

 

そうして

表情が死んでいく。

感情が死んでいく。

「自分は何も感じない人形みたいな人間だ」

と思い込むようになる。

 

けれど

本当は心の奥底になかったことにしていた

「本当はこうしたかったのに」

「本当はこうしたいのに」

というのはたくさんあって

 

抑え込むことが降り積もっていくと

 

「自分は何も感じない人形みたいな人間のはずだ」

「そうだったはずなのに――」

 と

なんらかの心身の変動が出てくる。

 

 

バーンアウトだったり

メンタルのアップダウンだったり。

 

「本当はこう感じているんでしょ?」

と自分の内側からノックされる。

 

「自分のやりたいことってなんだろう」

というのは

「自分が居心地が良いと感じるのは何だろう」

「自分が居心地が良いと感じるのはどういうときだろう」

ということ。

 

自分のやりたいことをやっているはずなのに

苦しさにさいなまれて居心地が悪い場合

自分じゃない何者かの価値観に呪縛されて

突き動かされていたりする。

 

一番大事なのは

自分がホッと息をつけるような

居心地の良さを感じられること。

 

 

そう思った。

 

ただそれだけ。

整体を受けた後に昔のトラウマが噴き出す

今月先生から整体を受けた後に

スーパーで買い物をしていたら

とてもおもしろいことがあって。

 

人混みの中にいるのが憂鬱になって

希死念慮のような感覚に襲われ。

ガタイが良い男の人が通り過ぎるときに

ものすごい「怖いっ!」と感じ。

 

目を走らせて

周りの人間たちを警戒しているような

恐怖や不安にかられているような感覚。

 

もう嫌だ。

外の世界の人たちと関わりたくない。

パートナーと二人だけで内にこもっていたい。

という思いにかられて。

 

「えええ、どうしたのこれ!?」

 

と思ったのですが。

 

振り返ってみると

昔の自分そのものの感覚だな、と。

 

科学的なメンタル強化をする前や

セラピーで対人恐怖(異性恐怖)が治る前の自分。

以前の自分は毎日が毎日

そのような状態で過ごしていた気がします。

 

ニュートラルな感覚を知ったいまでは

「なんじゃこれぇっ!?」

というカンジですが

昔の自分にとっては

それが当たり前の感覚だったんだよなあ、と。

 

翌日はなんてことはなしに

通常の感覚に戻ったのですが。

 

東洋医学や整体では

好転反応という考え方があって。

 

身体や心の状態が良くなるために

弛緩期⇒過敏期⇒排泄期

という風に経過していく。

 

たとえば

良い整体を受けた後などに。

 

最初は身体がゆったりしたような心地良い状態になって

その次に身体が敏感な状態になり寒気や痛み等を感じやすくなる。

そして最後に下痢や湿疹等、身体にためていた毒素等を排出する。

 

そんな反応の経過をして

心身が良くなっていく

という考え方。

 

だいたい今は

ひと月に一回整体を受けていて。

 

「怒りの感情をちゃんと味わうようにすれば

だんだんとメンタルの不調もよくなっていく」

マインドセットも込みで

指導してもらって

 

身体と心の両方から

自分の状態を変化させていく

ことをしており。

 

何回か整体指導を受ける中で

「一気にお腹が"キュッ”としまって

ものすごい嫌な感覚だなあ……」

と仕事終わり等に感じる時期が数日あって。

 

そのときはそういう

「身体がストレスを感じているんだな」

というのもわからない状態になっていたから

「ストレスを感じていた身体を感じる」

ということ自体がしんどかった。

 

本当に

「うげぇ……きっつぅ……」

という感じで。

 

何回目かの整体後二、三日は

「……やばい、私仕事しているとき

こんなにストレスを本当は感じているんだったら

もう仕事続けるのキツクない?」

本当につらい状態で。

 

でもここ最近は

整体を受けた後でも

そこまで「きっつぅ……」

という状態にはならず。

 

というのは

その「ほんまにきっつぅ……」

と感じていた時期は

好転反応の過敏期だったんだろうな、と。

 

そして今月整体を受けた後の

スーパーでの買い物時に感じた感覚も

過敏期(もしくは排泄期)の反応だったんだろうな、と。

 

昔受けたショックは

心身ともにちゃんと経過させないと

身体に残るそうで。

 

昔の自分が感じていた

対人的な恐怖はまだ身体のどこかに残っていたから

「ぶわぁっ」と噴き出してきたんだろうなあ、と。

 

そんなこんながあった昨今。

 

 

では、また次回。