呼吸といま~自己実現社会と非言語コミュニケーション~

 

学生の頃から

「いま学んでいることを将来どう活かすの?」

という質問が嫌で嫌で仕方なくて。

 

学びたいから学んで何が悪いんだと

心の中でレジスタンスしていて。

 

森鴎外

「学問のための学問」

という言葉に救われて。

 

けれど結局

「何のためにそれをやっているの?」

という外側の声に圧倒されて

自分が苦しくなって居場所がないような感覚になって。

 

「将来に存在するだろう何かのために」

と思って行動しようと思っても

自分には元々それが存在しないから苦しくなって

ないもの探しをしながら

とりあえずがんばるみたいになっていて。

 

「それ」がない自分はダメなのかな

みたいな感覚にもさいなまれて。

 

 

結局

「目標志向は

『いまをがんばれば未来にほしいものが手に入る』

と思って生きているから

『いま』という時間がおざなりになって

結局現在に対する欠乏感とか虚しさが消えない。

どこまで進んでも『いま』しか存在しないのに

存在しない『未来』に向けてがんばっても

その人は苦しさとか虚しさから解放されない」

 

と先生から聞き。

 

「自分がほしいもののためにいまがんばる」

という感覚自体が好きな人は

がんばっている『いま』に対して幸福感を感じられるから

目標に向けてステップアップしていく

というスタイルでも幸福感は感じられるのだろうけれど

 

「いまの自分じゃだめだから」

「ここを直したいから」

「こういう要素を持っている自分は人から煙たがられると思うから」

「これを持っていない自分はここにいちゃいけないような気がするから」

みたいな感じで

『いま』の自分に対する欠乏感や否定感

同調圧力からくる脅迫感から

目標設定してステップアップしていこうとすると

いつまでも不幸感や虚しさがぬぐえない。

 

だから

「なんとなく死にたい……」

みたいな希死念慮に襲われたりする。

 

なあ、と思い。

 

 

「なりたい自分になろう」

「夢を叶えよう」

「人生やりたいことをやらなきゃ死ぬ間際に後悔する」

みたいな自己実現社会に傾いていますが

そういった目標志向の渦の中にいると

 

自分がやりたいことをやりたいようにやっていると

「それは将来にどう活かすの?」

「好きなことをどんな仕事に活かそう、転換しようと思っているの?」

「どうマネタイズするの?」

「なんでもっとがんばらないわけ」

「習慣化して成果出せないやつは中途半端」

みたいな外側の声に圧倒され息が苦しくなってくる。

 

目標設定してしゃにむにがんばれない自分がダメなんじゃないか

死ぬ間際にそんな自分こそが後悔するんじゃないか

みたいな思いに襲われてグレーになるのですが

 

それでもやっぱり自己実現社会の渦の中にいると

自分の体感として苦しくなってくる。

 

前まで自分が身を置いていた環境がまさにそうだったのですが

けれどいま身を置いている場所にいる人たちは違っていて。

 

「子どもと一緒にいる時間が幸せ」

「おいしいもの食べれて幸せ」

「好きな小説読んでいる時間が好き」

 

とか

全然目標志向タイプじゃないのに

「あれ……? なんかこの人たちの方が幸せそうじゃない?」

と感じて。

 

自分は体感として「こっち」の方が好きだな、と。

 

 

目標志向タイプの人から言わせると

「いまがんばってないやつはダメ」

「いまの欲望を優先させて将来後悔したいの?」

「後悔するのはそういうタイプだ」

みたいな声が圧倒的で。

 

そっちを選ぼうとしている自分は

やっぱり死ぬ間際に後悔するんじゃないか

という恐怖感も拭えなくて。

 

どっちが真実なんだ。

どっちが自分にとっての真なんだ。

自分はどっちをとるんだ、どこにいればいいんだ。

 

と絶えず自分の中でせめぎ合っている。

 

 

目標志向タイプじゃない人が

万事幸福状態だとは思わないけれど。

 

目標志向タイプの集団の中にいたときは

たしかにその人たちはがんばっていたし

そういう未来に向けてがんばっている人たちカッコいいな

とも思っていたんだけれど

「がんばらない自分はダメ」みたいな強迫観念がまとわりついているように感じたり

それが転じて「がんばらない・成果出していない」人を下に見る選民思想みたいな風潮を感じたり

絶え間のない不安感がどこかしらつきまとっているな

本来は戦わなくてもいい見えない何かと戦い続けているのでは

という感覚があり。

 

自分が勝手に見ていた幻想なのかもしれないけれど。

 

 

「自分の体感として居心地の良い場所が良い場所なんだよ」

という声が示しているのは

いままで自分が身を置いていた場所とは違っていて。

 

袂を分かつ必要はないのかもしれないけれど

 

袂を分かつような断腸の思いを持たないと

自分はそれが断ち切れないんじゃないか

また元に引っ張られていくんじゃないか

 

と思って泣きたい気持ちに襲われる。

 

本当はそうじゃないんじゃないか

もっと中庸の道はあるんじゃないか

とも思っているんだけれど。

 

また渦に飲み込まれるのも怖い。

 

 

「自分の体感で居心地がいい場所」

というのをレーダーで感知し続けて生きているのですが。

 

最近は

電子ツールで人とやりとりすることがドッと疲れる

ケータイを持っているだけで憂鬱な気持ちになってくるな、と。

 

理性中心の言語コミュニケーションだからだろうな、と

思うのですが。

 

言語学習が好きでやっていて

言語が到達するところにたどりつきたいと思ってはいるのですが

 

幸福を感じる瞬間というのは

「非言語コミュニケーション」

なのかな、と。

 

「その人と同じ空間にいる」

「呼吸を合わせる」

「目が合って、その中に愛情を感じる」

「手をつないで歩くと安心する」

とか。

 

言語を中心とした

「理性コミュニケーション」だけだと

結局息が詰まってくる。

 

真実とか幸福が詰まっているのは

「非言語コミュニケーション」

で、自分がなじむものだと

息が吸えるな、と。

 

 

「目の前には存在しない何某かと呼吸を合わせる」

ことをしていると幸福感が満ちてくる。

 

 

人混みの多い街中を歩いているときに

自分でも答えのわからない何かを探している感覚になって

どこに行きたいかもわからないのにそこに行こう

歩けばたどりつけるんじゃないか

って感覚になってふらふら歩いてしまうときがあるのですが

結局いくら歩いたところで求めていたものは存在しなくて

むなしくなって家に帰る。

 

というときに探しているのって

本当は

「非言語コミュニケーション」から感じる

幸福感とかぬくもりだったんだろうな

とふと思いました。

 

 

では、また次回。