「○○ちゃんは将来何になりたいの?」

将来なりたい夢が

あった人も

なかった人も

こんにちは。

 

猛烈にやきそばを食べたくなって

つくっていた管理人です。

 

子どもの頃

「将来何になりたいの?」

と大人たちから聞かれたことがある方。

 

「ない」と答える人の方が

少ないのではないでしょうか。

 

私も当然のことのように

「将来何になりたい?」

と聞かれました。

 

けれど、小さい頃から

「将来何になりたい?」という質問に違和感があり

「明確な答え」というのを持てないでいました。

 

「そんなもの何もないんだけどな……」

と思いながらも

「大人が納得しそうなことを答えておくか」

「友だちが言っているのに近い無難な答えをしておくか」

というスタンスで一応答えてはいました。

 

「『何か』という答えを持っていなければいけないのか?」

という疑念が常につきまといながらも

とりあえず既存の職業を答えておく。

 

「将来何になりたいの?」は

最近まで頭の隅で尾を引いていた問いだったのですが。

 

いまになって思えば

「将来何になりたいか」

ではなく

「どう生きたいか」

の方が自分にとってはしっくりくる問いであったなと。

 

「将来何になりたい?」

という問いには

「すでに存在している価値観や枠に

あてはまる答えを用意せよ」

というある種の脅迫感が含まれていたなと。

 

 

本来、似ているけれどもそれぞれ違う在り様をしているのが

当たり前のことなのに

 

 

既存の枠の中に

「あてはまらなければならぬ」

「あてはまれば他人に認められるから」

「そうでなければおかしい」

「なんとかあてはまらないと」

「そこに至れなかった自分はダメだ」

と肩肘を張ってガンバッテいる状態を引き起こしてしまう。

 

既存の枠や価値観を基準にするから

他人との比較が生まれて

言いようのない不安に襲われたり自己嫌悪に陥ったりしてしまう。

 

家族との生活や学校生活、マスメディアからの影響で

既存の「何か」になった方が良いと思い込んでしまう。

既存の「何か」にならねばいけないと思い込んでしまう。

 

既存の「何か」を目標にすることによって

「自分は何かが不足している」ような感覚に陥ったり

「何ものにもなれない自分」に落ち込んだり。

 

だから

「自分ではない何ものか」になろうとしたり

「自分に不足しているもの」を補おうとしたり。

 

けれど

自分の外側に目標を定めているかぎり

いくら肩肘を張ってガンバッて埋めても

一時的に達成感や満たされた感覚を得られるだけで

また「自分には何かが足りない……」となってしまう。

 

 

人間のベースとしての仕組みはほぼ同じで

性質も似通っているのかもしれないけれど

 

それぞれの生まれ育ちや感受性、そこから得てきたものは

それぞれがちがう。

 

だから

「自分であることは自分にしかなしえないこと」

「他の誰も自分という存在になることはできない」

 

「何かになりたい」んじゃなくて

「自分という存在を究めていく」でいいんじゃないかなと。

 

自分であることは自分にしかなしえないことだから

そもそも比較対象が存在しない。

比較して自己嫌悪することは起こりようがない。

 

「自分という存在を究めたい」という先に

誰かが用意したゴールは存在しないから

「こうせねばならぬ」

「こうしてはならぬ」

も存在しない。

 

 

その過程や至った先に

「既存の枠にあてはまるものがありませんでした」

でも別にいいんじゃないかなと。