人に恋するというのは○○を愛そうという旅の過程にほかならない

恋愛とは愛ではなくエゴである。

 

というのは

良く聞きますが。

 

つまり

人に恋する

恋愛するというのは

自分を愛そうとする行為にほかならない。

 

恋愛に奔走する人というのは

本当は自分自身を愛することができていなくて

そんな自分で愛せない自分を

この人だったら愛してくれるんじゃないか

という期待を込めて恋をする。

 

だから恋愛というのは

自分を愛そうとする旅の過程にほかならない。

 

だから

恋愛でうまくいかない

そもそも恋愛という行為にいたれない

という人がまずした方がいいのは

自分を愛する

自分を受け容れる

ということ。

 

ダメな部分も

良い部分も含めて

これが自分なんだ。

 

自分はそれで良いんだ。

 

ダメな部分も

良い部分も含め

自分に対する安心感。

 

そんな自分が世界に存在しても良いんだ

という安心感。

 

ダメな自分も

良い自分も含めて

自分を受け容れてはじめて

 

こんなダメなところがあったって

この人にはこんな良いところがある

と人のことを受け容れることが

できるようになる。

 

けれど

ダメな部分も

良いところも含めて

自分を認めるには

 

ダメな部分も

良いところも含めて

自分を認めてくれる存在が必要。

 

そんな人とめぐりあって

はじめて自己受容ができる

という面も存在する。

 

人生の通過点でそんな人とめぐりあって

時間をかけて

この人は自分のダメなところも良いところも

受け容れて認めてくれているんだ

とその安心感に浸ることができて

 

はじめて

 

不信感を持って

批判的な目を向けていた自分という存在を

受け容れることができるようになる。

 

 

けれど

「自分のこういうところがダメだから」

「ダメな部分をこういう風に変えれば人から認めてもらえるはず」

「自分の欠点をなくして自分を変えれば世界から受け入れてもらえるんじゃ」

自分を否定しながら

自己改築に奔走する人というのは

 

自分がダメだと思い込んでいる自分の欠点を

自分で常に批判している。

過去から今にいたるまでの自己存在というものに

不信感・否定感を持っている。

 

そんな

ネガティブに自分を見ること、対応する状態に

自分自身が慣れさせているから

そういった対人関係を好んで選ぶようになる。

 

自分に厳しく叱責して

自己改築を迫ってくる人たちや

自分を追い込みながら

過剰な成長欲求を満たす道を突き進む仲間たちの輪の中が

とても居心地よく感じる。

 

人間は自分が本来的に望んでいるものよりも

慣れているものを心地よく感じる性質がある。

 

だから

自分の欠点を愛せずに批判する自己像を持っている人は

自分の欠点を批判して改築を迫る対人関係の中にいやすくなる。

自分の欠点を批判されるのは嫌だと思いながらも

慣れているからと引き寄せられてしまう。

 

それが正しいんだ、と思ってしまう。

 

けれど

本来的な欲求というのは

「ダメな部分も含めて自分のすべてを受け容れてほしい」

「ダメな部分も含めて自分を愛してほしい」

ということにほかならないのに

現実世界の自分はそれと真逆の行為にひた走っている。

 

ダメな自分を受け容れきれずに

過剰な攻撃を加えて消し去ろうとしている。

 

そうすれば

「自分という存在は愛されるんじゃないか」

という幻想に支配されている。

 

 

「ダメな部分も含めて自分のすべてを受け容れてほしい」

「ダメな部分も含めて自分を愛してほしい」

 のに

「ダメな自分を変えれば人から受け容れられるんじゃないか」

「ダメな要素を消せば人から愛されるんじゃないか」

と思い込んで

過剰に自分を成長させる環境

ダメな自分を批判して

受け容れてくれない人たちの輪の中に入ってしまう。

 

 

では、そもそも

なぜ

「ダメな部分も含めて自分のすべてを受け容れてほしい」

「ダメな部分も含めて自分を愛してほしい」

 のに

「ダメな自分を変えれば人から受け容れられるんじゃないか」

「ダメな要素を消せば人から愛されるんじゃないか」

と思い込んで

ひた走ってしまうのかというと。

 

だいたい

幼少期から続く親子関係

家族関係に起因していたりする。

 

自分がよくできたときだけ褒められたり

(逆にできなかったときは認められないという思い込みをつくったり)

自分の何かを批判されたり笑われたり

過剰に心配されて自分は心配されるようなダメなやつなんじゃないか

と思い込んだり

親が自分の子育てを喜んでやっている雰囲気を感じられず

義務的に対応しているだけなんじゃないか

と思い込むような対人態度をとられたり

 

そんな対応を繰り返される中で

自分の欠点(だと自分で思っている部分)を

受け容れられず批判するようになってしまう。

 

 

「ダメな部分も含めて自分のすべてを受け容れてほしい」

「ダメな部分も含めて自分を愛してほしい」

 のに

「ダメな自分を変えれば人から受け容れられるんじゃないか」

「ダメな要素を消せば人から愛されるんじゃないか」

 

というのは

 

自分の親に対する

「ダメな部分も含めて自分のすべてを受け容れてほしい」

「ダメな部分も含めて自分を愛してほしい」

 という欲求にほかならない。

 

けれど現実の自分と親の関係から

自分が受けた感覚というのは

「自分のダメな部分は受け容れられていない」

「自分のダメな部分は愛されていない」

というものだから

 

 

「ダメな自分を変えれば親から受け容れられるんじゃないか」

「ダメな要素を消せば親から愛されるんじゃないか」

 

と自分の欠点を批判した上で

それを改築する方向へと

ひた走るようになる。

 

その思いが変化して

「ダメな自分を変えれば人から受け容れられるんじゃないか」

「ダメな要素を消せば人から愛されるんじゃないか」

 になる。

 

親子関係が

そのまま外の世界の

対人関係に投影されやすい。

 

親から自分は

祝福されながら生まれてきたんだ

愛されているんだ

という思いが持つことができていないと

 

人の輪の中にいても

どこか孤独感が混ざったいたり

自分は世界に居場所がないんじゃないか

という孤独感を根底に持ったりするようになる。

 

世界というのは

自分の親像を投影した人間関係にほかならない。

 

 

だから

「ダメな部分も含めて自分のすべてを受け容れる」

「ダメな部分も含めて自分を愛する」

ことを自分でできるようになるためには

 

自分という存在は

「親から愛されていたんだ」

「親から愛されているんだ」

実感を持って知る必要がある。

 

それができてはじめて

自分という存在を

胸の奥底があたたかくなるような感覚も持って

抱きしめることができるようになる。

 

 

「なぜ自分をちゃんと愛してくれなかったんだ」

という孤独感やさみしさ

自覚できない怒りは

「親は完璧な存在である」

という過剰な期待感を伴った幻想に

起因していたりする。

 

(親は完璧だから)

本当に自分を愛しているんだったら

完璧に自分の気持ちを汲んで

完璧な対応をしてくれなきゃおかしい。

 

完璧に自分の気持ちを汲んで

完璧な対応をしてくれないということは

親は自分のことを愛していないんだ。

 

そんなことはない。

 

実は親もまた

安心感をともなって親から愛される

という経験をしてこなかったから

自分の子どもに素直に愛情を表現する

ということができなかったりする。

 

成熟した完璧な大人に見えて

孤独感やさみしさをともなった子どもを

いまだに自分の中に飼っていたりする。

 

 

親という存在もまた

自分と同じように完璧ではなかったんだ

と実感できるようになってはじめて

 

親のように

自分も完璧にならなきゃいけないんだ

というラットレースから脱却することができる。

 

完璧だと自分が思い込んでいる親が批判する

自分の欠点をなくして自己存在が完璧になれば

親から愛されるんじゃないか

という愛情飢餓も薄らいでいく。

 

 

完璧を目指さなくたって

あなたはあなた。

 

ダメだと思う部分があったって

それを含めてあなた。

 

そのまま世界に存在していいんだよ。

 

 

 

 

誰かにそう言ってほしくて

そう願ってやまなくて

 

人は人に恋をする。

 

恋愛とは自分に対する求愛活動にほかならない。

 

自分を愛そうとする旅の過程で

人は人に恋をする。

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