「結局死ぬのになぜ生きるのか」「自分は誰かのよろこびである」

雑話が

好きな人も

そうでもない人も

こんにちは。

 

「結局」と書こうとして「け」と打ち込んだときの

最初の予測変換が「ケージ監禁」だった管理人です。

 

ち、ちがうんです、私は決してそのような趣味趣向は……っ!

わたくしめのパソコンの記憶能力が良いばかりに……っ!!

 

 

「結局死ぬのになぜ生きるんだろうなあ……」

ということをふとした折に考えることがあるのですが。

 

そうすると

「結局死ぬんだからがんばって生きて何になるって言うのかな……」

と退廃的になったり

「いま自分の好きなことすればいいじゃん!」

と刹那主義になったり。

 

自分の輪郭がぼやけてしまい

なんとなくその間の生活やマインドが腐りやすいのですが(笑)

 

でも、退廃的になったり、刹那主義になったり

ちょっと腐ったような生き方になってしまうのは

結局人生や生命が自分一人の中で完結してしまう

という考えをベースとしているからなのかな、と。

 

 

「結局死ぬのになぜ生きるんだろうなあ……」

 と考えたときに

自分の存在は未来の何かにつながっている、という意識があると

マインドが腐りにくいのかな、と。

 

自分の命じゃなくても

誰かのためにした親切とか、言葉かけとか、物とか。

 

形作った物質が消失しても

それを見た誰かの心が動いて変化を生んだとか。

 

どんな小さなものでも

自分がこの世に存在したからこそ

未来につながる何某かの変化が生まれたんだ。

 

と、自分から派生した何某かが

連綿と続いていく、循環していく

という考え方がないと

やっていけないような気になってくる。

 

大衆、大勢の人間に影響力を出すほどの

でかくてすごいものを生まなきゃいけないんだ!!!

って思ってしまうと

自分で自分の首を絞めて苦しくなる。

どちらかというと他者承認欲求に寄っている感じがするので

苦しくなる。

 

どんな小さなものでも

未来に続く何某かを生む存在になれるのだとしたら

無意味に思えるいまの時間もがんばって生きよう

と思えるし

自分という存在の肯定感にもなる。

 

……なあ、とふと

茫漠とした毎日を送りがちになっていた昨今思いました。

 

 

じゃあ

「誰かのために生きるのが良い!」

「未来に託す何かのために生きるのが良い!」

のかというと、

そうとも言い切れないのかな、と。

 

誰かのために生きた方が

自分のマインド的にも生きやすいし

本当に誰かのためになっている

という人もいるし。

偽善的で他人を破壊する行為になる人もいるし。

 

自分のために生きた方が

自分のマインド的にも生きやすいし

 まわりまわって結局誰かのためになっている

という人もいるし。

結局自分にしかエネルギーが還元されず

退廃的な最期を迎えるひともいるだろうし。

 

人によりけりだったり

時勢によりけりだったり。

 

 

どこかのラジオで聞いて

出所は忘れてしまったのですが

 

生きるのが虚しいのは

自分が「楽しむ」ために生きているからで

「よろこび」のために生きていないからだと。

 

自己実現とか自分のために行動すると

「楽しい」は感じられるけれど

それしかないと虚しくなってくる。

 

自分は楽しくないけれど

自分がやったことが誰かのためになっているんだ

という行為は「よろこび」になる。

そうすると心が満たされる。

 

「よろこび」だけに偏って生きようとすると

自分をないがしろにしすぎて

それもまた苦しくなるから

自分を癒すために「楽しさ」も必要。

 

 

この「楽しさ」じゃなくて「よろこび」に生きる

というのは鬼滅の刃的な世界観だなあ、と。

 

自分は今日、明日にでも死ぬかもしれないし

痛いし苦しいけれど

誰かのために強くなって戦う。

 

それは「楽しくない」けれど「よろこび」

 

「楽しさ」じゃなくて

「よろこび」中心に生きているキャラクターが多いから

魅力を感じる世界観なんだろうなあ、と。

 

 

自分の存在の拠り所を失ったり

元々なかった人たちが

「誰かのために」っていう「よろこび」の世界に足を踏み入れることによって

自分自身の存在を証明したり拠り所を得ていく

っていうストーリーが各キャラクターにあり

それが魅力的で惹きつけられるんだろうなあと。

 

 

じゃあ

「他利的(他者貢献的)に生きるのが良いんだ!!」

っていうと

それもどうなんだろうなあ、と。

 

「他人のために」って意識した時点で

なんとなく無理のある行為になりがちな気が。

自分の気張りがある。

 

息をするようにやった行為が

あとからふと考えれば誰かのためになっていた

というのが「他利」なのかなあと。

 

結局自分を救えていない人が

「誰かのために」と意識してやった行為というのは

根本で結局「自分のため」の行為だったり。

 

「自分の根本的な所在が不安だから」

「他人に必要とされているか不安だから」

「評価されたいから」

「何某かが得たいから」

とか。

 

でも

ちょっと気張りのある意図的な他利行為をしていくなかで

自己肯定感が生まれて、欠乏感が満たされて

自分の所在がたしかになることで

息をするように他利行為ができるようになるのかな、と。

 

「自分は誰かのよろこびになっているんだ」

と気づいて、満たされることで

はじめて自分が安定して

「誰かのよろこび」になることができるのかな、と。

 

「自分は誰かのよろこびになっているんだ」

という感覚が欠乏したまま、実感がないままだと

結局、他利行為をしているようでいて自利行為になってしまうのかな、と。

 

 

そんなことを色々と考えていた昨今。

 

 

では、また次回。