就職活動してるけどぶっちゃけ「働きたくない……」
こんにちは。
今回は、本当に「働きたい」って思いながら働いている人とか、就職活動している人ってやっぱり少ないんでねーの? という話をば。
現時点の私は働かないでも生きていける仕組みをつくるために自分でビジネスをすることを考えているので「まあ、そうだよね」って話なんですが。
(追記※ 2019年2月現在はメンタル的な紆余曲折を経て普通に就活中)
企業に拘束される形の働き方はしたくない。
「want to」と「want」は違うよね
「働く」というツールが「ほしい」だけ
そもそも純粋に「働く」という行為自体をしたい人っていうのはごくごくわずかなのでは。
私の場合、自分の人生の中でやりたい、実現したい「want to(したいこと)リスト」があって、その中に「働く」って行為自体は入っていないんですな。
あくまでも「want(ほしいこと)リスト」の中に「働く」がある。
ようは「want to(したいこと)」を実現するためのツールとして「働く(ことができる状況)」が「ほしい」んですな。
そして、そのツールの性能が高ければ高いほど良いと思っている。だからそれを探してさまよったり、悩んだりする。
例えばそのツールに求める性能っていうのが、人によって、ブラック企業ではなくホワイト企業、残業が発生しない職場環境である、個人で集中できる作業場がある……などなど色々あると思うんですな。
そして「ほしいこと」である「働く」というツールが「したいこと」と重なっていればより良いよね、っと。
けっこう、この「want to」と「want」を混同して考えている人が多いような気がします。過去の自分もそうでしたが。
(この「want to」と「want」は、「want」と「need」に置き換えられるかと。自分の場合は「want to」と「want」の方が腑に落ちるのでこちらを使用しています)
「働く」って本当に自分が「したいこと」?
たとえば「働きたいから就職活動している」って主張している人(思い込んでいる人)も、本当にその人が「したいこと」は「働く」ことではなくて
「金がほしい」
「親を安心させたい」
「親からの圧力を避けたい」
「(働いている自分を示すことによって)日本社会の中で一般的な大人として認められたい」
などなどが本当に「したいこと」だと思うんですな。
(この日本にて働かないでタダ飯食っていると心苦しい状況に追い込まれますからな……)
上で書き記した「したいこと」の一つである「金がほしい」ってことの先にも、その「金を得る」ことによって実現したい「したいこと」があって
「旅行したい」
「ゲームが買いたい」
「猫を飼いたい」
「税金を納めることによって社会人としてのつとめを果たし、社会的に承認されたい」
などなど人によって様々なものがあると思うんです。
「旅行がしたい」ってことも……といったように、自分の本質的な欲求である「したいこと」っていうのはどんどん深化させていくことができると思うんですな。
そして突き詰めていったところに自分の本当の「したいこと」「求めていること」が存在する。
「真面目に生きたいんです! 僕ぁっ!」って言っている人も
「真面目に生きる」という行為自体はその人の「したいこと」ではなくって、その人が本当に「したいこと」は
「親をよろこばせたい」
「親から承認されたい」
「女の子の注意を集めたい」
「社会から承認されたい」
などだと思うんですね。
過去にいわゆる真面目って言われる行為をすることによって他人からポジティブな注意を集める経験をしたから、無意識に「真面目」なことをすれば他人からこういう評価を下されるって学習をしていて。
「親をよろこばせたい」無意識の欲求
で、上でもちょろっと書いた「親をよろこばせたい」ってかなりでかい要素だと思うんですな。
これは自分の経験に基づくことにはなるのですが、親に反発したり鬱陶しいと思っていたりしても、けっこう子どもっていうのは親の存在を気にかけているんですね。
親の存在というか「親の気持ち」にかなりアンテナを張っているというか。
「(働きたくない→けど就職活動をはじめている様子を報告したらお父さんが安心した顔をした)」
「(この会社で本当に良いのかな……→けど就職先が決まったらお父さんがよろこんでくれた)」
「(自分が進みたかった業界じゃない→けど「この会社なら安心だね」ってお父さんが安心してくれた)」
などなど。本質的に親を安心させたい、よろこばせたいという欲求を持っているんですな。
その「親の気持ち」を敏感に察知し続けるのが自分の無意識化の思考としてプログラムされているので、自分では「親の気持ち」にかなーり配慮しながら行動しているって自覚がない。
でもどこかで自分の感覚と実際にとっている行動に違和感というか、不具合みたいのがあって、それが自分の心の中でもやもやとしたものを生み出す。でも自分ではわからない。
親に対する苛立ちやら不満っていうのは、「自分が行きたい方向」と「親が自分に望むもの(よろこぶもの)」が違うから生まれるような気がします。
でも、自分では親に反発しているしあまり良い態度をとっているわけでもないから「親を無意識によろこばせよう、安心させよう」としている自分には気づかない。
……なーんてことに最近気がついたので、就職活動していて苦しかった要因の一つに親の意向があったと思うんですな。
親、大好きなんですけどね。でも、だからこそ無意識によろこんでもらえるような行動をとってしまう。でも自分の行きたい方向と求められていることが乖離しているから苦しくて反発する。でもよろこんでほしい……。という果てしない思考と行動のループ。
最近はちょっと距離をとれているので良くなってきてはいるのですが、現在解決しようとしている課題の一つですな。
「したいこと」と「ほしいこと」の区分け
とまあ、ちょいと脱線した感じがありましたが、とにかく自分の中にある「want to」と「want」を明確に分けて考えることって大事だよねって話です。
それが例えば先ほどお話した「働きたい」んじゃなくって「親を安心させたい」「親をよろこばせたい」から就職活動している、など。
自分の中の本当の「want to」を理解しないで「want」が自分の「したいこと」であると認識して行動すると、現実と自分の内面にズレが起こって苦しむことになると思うんですね。
「自分のしたいことをしている、目指しているはずなのになんでこんなに苦しいんだろう……」ってな感じで。
だから本当に「働きたい」のかって考えることは大事だと思うんですね。
本当に「企業に就職して働きたい」のか、と。
それって本当に自分の「したいこと」なのか?
「したいこと」を実現するためのツールとして求めているんじゃないかと。
「働く」っていうツール以外に自分の「したいこと」が実現できるんだったら、別のツールに切り替えても良いと思うんですな。
ただ、その「したいこと」を実現できるツールがいまのところ「働く」こと以外に見当たらない、それが一番実現性が高そう、と思っているからそれを選択しているにすぎないのではないかなー、と。
「お金を得る」
「親をよろこばせる」
「社会人(大人)として社会から承認される」
「自分の力で生きる」
などなど、「働く」っていうツールを入手して使用すれば、かなり自分の「したいこと」が実現できますからな。
……このような記事を書くにいたったのも「want to」と「want」のことを考えさせられるエピソードがあったからでして。
↓の記事の最後あたりにちょろっと書いてあります。
ざっくり言うと、就職採用会にて「僕、働きたくないんです」と言った男の人がいて、「じゃあ、なんでここにいるんだよw」ってツッコミが入る場面があったんですね。
まわりの目を気にして嫌々ながらに就職活動をしていた大学時代
ただ、私自身、大学時代に就職活動していたから「僕、働きたくないんです」と言っていた彼の気持ちがよくわかるんですね。
私も就職活動時代に同じ思いを抱きながら、嫌々就職活動していたので。
残り一年未満の状況で卒業がせまっているし、親からの期待やら圧力もあるし、大学の同期はどんどん内定決まっているみたいな話も聞くし。
何より、就職できない、働けない自分になるっていうのが、自分のプライドとしては許せないものがあったというか。
「就職できなかったらまわりからどう思われるか……」っていう他者評価を過剰に気にしている感じだったんですね、当時は(いまもですが)。
で、結局「ああいう風にはなりたくない」と自分が思っていた一連の行為をしてしまったんですね。
黒スーツに身を包み、就職セミナーに参加し、エントリーシートを書き、面接の練習をし、就職先紹介業者にも足を運び……。
結果として一社から内定をいただき、親もよろこび、自分もひとまず安心。
でも心の中では「こんなことをしたいわけじゃない……」と違和感を感じる。
でも、本当に自分が進みたい方向もわからないし、なんとなく思い描いている夢を実現するための能力も現時点ではないし、それを伸ばしていく時間も自分にはないんだ、とネガティブな状況にいる自分にあきらめを感じていた。
そして、もうすべてが遅すぎたんだ……と思いながら企業に就職。
本当はそんなことなかった、と今ならわかりますが。
あきらかに20代前半の人間が抱く感情ではない(笑)
でも、当時としてはその思いが当たり前で、結果、色々職場内で苦しみ鬱を発症して会社をやめて……って感じだったんですね。
わからないながらに挑戦したこと自体は良かったと思います。それだけは絶対に言える。そこから得たものは大きかった、と今なら言える状況にはなったので。
振り返ってみれば色々もっとやりようはあったとは思いますが、その一連の行為が当時の自分にできる最大の行動だったと思いますし。
ただ、まわりを思う気持ちとか同調もある程度大事だけれど、それで自分の欲求を殺して生きちゃつらい。
他者評価を気にして人生の選択をし続けても、結局リスクを負うのも結果を背負うのも自分ですからね。