鬱症状が出る人の根幹には○○の抑圧がある

ついつい自分のことを

責めてしまいがちな人も

そうでもない人も

こんにちは。

 

ハッカあめをひさしぶりになめたら

おいしく感じた管理人です。

 

鬱の人というのは

「必ず何かしらの罪悪感を抱えている」

という話を見まして。

 

また、別の記事では

「根幹に怒りを抑圧している」

という話を見まして。

 

また某所では

「自責をしやすい人というのは

根幹に怒りの感情がある」

というのを見まして。

 

だから

とにもかくにも

鬱症状が出やすい人というのは

「怒りの感情の抑圧がある」

ということ。

 

もともとのパーソナリティとして

感情を凝固しやすかったり

抑圧しやすかったり。

 

幼少期の家庭環境で

傷つくことが多くて

「感情を感じないように順化した」

「感情を感じないように思考に逃げるようにした」

「感情を流す癖をつけた」

ことがあったり

「ネガティブな感情を否定する・消そうとするようにした」

ことがあったり。

 

そんな心の癖が降り積もって

蓄積していって

それが「鬱」という症状として出てきた。

 

だからとにかく

自分の感情を

「ありのままに味わい尽くす」

というのが大事になってくる。

 

 

 

「親に対してこんなこと思っちゃいけない」

という心の癖がある人は

他の対人関係でも

「こんなこと思っちゃいけない」

と感情を抑圧してしまう。

 

 

「なんでこんなひどいことするの!?」

「親に色々世話を見てもらっているんだから

こんなこと思っちゃいけない……」

 

「ふざけないでよ!!!」

「自分は恵まれた環境で育ってきたんだから

こんなこと思っちゃいけない……」

 

「なんでもっとこうしてくれないの!?」

「もう良い年なんだから自分も大人になって

こんな子どもっぽいこと思っちゃいけないよな……」

 

「ちゃんとやってよね!!!」

「自分もちゃんとできていないんだから

相手に対してだけこんなこと思っちゃいけない……」

 

 

 本当は

「こんなこと思っちゃいけない」

なんてことは何一つない。

 

自分が感じる感情がすべて。

 

そこに善悪はない。

 

ただ泉のように湧いて出てきただけ。

 

そこに意味を付加するから

おかしなことになってしまう。

 

善悪で自分の感情を評価するようになると

「こんなこと思っちゃいけない……」

「怒りを感じるのは悪いことだ……」

と自分の感情を抑圧する方向に動いてしまう。

 

湧いてくる感情に善悪はない。

 

湧いてくる感情は

ただそこに現れただけのこと。

 

ほかの誰にも見えない。

 

ちょっとした表情やボディーランゲージで

気づいてくれる人はいるけれど

それでもその人は

あなたのすべてを完全に理解してくれるわけじゃない。

 

あなたの感情はあなただけのもの。

何に対してどんな感情が湧くかは

自分でも予測できない、操作できない。

 

ただ泉のように湧いて出てきただけ。

 

 

 

怒りの感情を抑圧してきた人は

ふとした瞬間にそれがバッと

放出してしまいそうになったり

実際誰かに爆発させてしまったり。

 

だいたいそれは

自分よりも立場が弱かったり

抵抗しなさそうだったり

優しそうな人だったり

「この人だったら自分のこと受け止めてくれるんじゃないの?」

と期待を寄せる人だったりする。

 

だから

自分を攻撃してこない

自分にひどいことをしてこない

「イイ人」に対して怒りを爆発させてしまう。

 

本当はその人はあなたにとっての

「イイ人」のはずなのに。

 

「自分のことをわかってくれよ!!!」

「自分はこんなにもつらいんだよ!!!」

と暴風雨のような感情をその人にぶつけてしまう。

 

本当はその「イイ人」とは

ハートがあたたかくなるような

笑顔があふれるような触れ合いがしたいはずなのに。

 

けれど

そうやって少しずつ少しずつ

「怒りの感情を味わう」

ということをしていくと

だんだん

カッと猛烈に怒りが爆発してしまう

ということもやわらいでいく。

 

怒りが自責に転換しやすい人は

最初は

怒りを味わおうとすると

すぐに自責に転換してつらくなってしまう。

 

けれど

くりかえしくりかえし

「感情を味わい尽くす」

訓練をしていくうちに

よくなっていく。

 

「あ……自分もこういう風に思っていいんだ」

「あれ……意外とみんなもこんな汚い感情思っていたりしたんだ」

「なんだ、自分だけじゃなかったんだ」

 

少しずつそう思えるようになっていって

少しずつ、少しずつ

自分の「怒りの感情を味わう」

ということができるようになっていく。

 

そうすれば

過剰に自分を責め立てていた自分も

だんだんとやわらいでいく。

 

 

そう思った。

 

ただそれだけ。

 

 

 

では、また次回。

「自分自身のパートナーがほしい」望んでいたのはそれだけだった

良いパートナーが

いる人も

そうでない人も

こんにちは。

 

とろろそばが食べたい管理人です。

 

 

以前は

「成長し続けなきゃ」

という強迫観念に追われて

(自分では「成長したい」と思っている

と思い込んでいた)

バーンアウトを起こしたり

色々あったのですが

 

最近はそれが落ち着いてきて

毎日の何気ないことが幸せだなあと

思えるようになってきました。

 

以前は

「一ヵ月に本を10冊以上読めば日本人の上位10%に入れる」

「成長を目指さなければ」

「最先端のものに触れ続ける」

「一流のものに触れ続けていれば

一流がわかる審美眼が磨ける」

 

という情報に惹かれて

「よっしゃあ! 1ヶ月に10冊以上目指すぞ!」

「最先端の情報を得続けよう!」

「一流のものを見続けるぞ!!!」

 

なんてガンバッていたんですが。

 

いまは

「そもそも日本人の上位10%に入れたからなんだっていうんだ……?」

という感覚が。

 

(とはいえ一流になれたらいいなあ

という気持ちがまったくないわけではないですが)

 

結局のところ

「日本人の上位10%」

とか

「一流」

というのは

 

「自分の外側にある基準に応える」

「他人からすごいと言われる人間になる」(=承認欲求)

「まわりの人たちに置いていかれない(=安心感)」

ってことなんだなあ、と。

 

自分の魂の奥底が満たされるような

内側から湧き出る要求とは

ちょっとちがうよなあ、と。

 

 

誰かから「いいね」と言われたい。

成長しないとまわりから置いていかれてコミュニティからあぶれる。

能力を身につけないと将来何かが起こったときに

自分の生活が守れないかもしれない。

(社会的にまともな生活を送っていないと

周りからどう思われるんだろうという不安)

 

っていう

不安感を拭いたい(安心感を得たい)

承認欲求を満たしたい

って

思いにほかならなかったんだなあ、と。

 

 

じゃあ、最近は

なんで落ち着いてきて

いまが幸せだなあ

と思えるようになったのかというと。

 

人生で初めてのパートナーができた

(*・ω・*)

からだなあ、と。

 

その瞬間に

自分の魂の奥底が満たされる感覚に。

 

以前から気づいてはいたのですが

自分が心の奥底から望んでいたのは

「自分自身のパートナーがほしい」

ということで。

 

父親とどれだけ仲良くても

「どれだけ父に盲目的に愛されても

この人には母という唯一のパートナーがいて

私はこの人にとっての唯一の存在じゃないんだ」

 

という虚しさに襲われたり。

 

異性恐怖があったり

異性からちょっとでも触れらると「キモチ悪い」とゾっとしたり

自分に関わる性的な生々しい話をされると

猛烈に激しい怒りの感情に襲われたり

 

そういうのがあったから

相手から好意を寄せられているとわかっていても

「私は応えられないんだよなぁ……」

と、気づかないふりをしたり。

 

そのくせに

「自分はどうして付き合うという行為に至れないんだ」

と自責したり。

 

好意を寄せられているとわかっていても

「この人も親しくなったら態度が豹変するんじゃないか」

モラハラ化するんじゃないか」

「ひどいことを言ってくるようになるんじゃないのか」

「いずれ自分のもとを去っていくんじゃないか」

と警戒し続けたり。

 

異性愛者であるし

性的欲動も普通に湧く生体を持っているから

年の近い異性といるとうれしいし

仲良くなりたいという思いもあるし

無意識的にウーイング的な行動もとってはいたのだけれど

 

異性恐怖があるから結局

恋愛的な意味で誰とも仲良くなることはできなくて

「応えられないくせになんで自分はウーイングするんだ」

「自分が女じゃなかったらこの人と仲良くなれたんじゃないか」

「なんで世の中に性別が存在するんだ」

と自分の女性性や性的欲動を責め立てたり

 

踏み込んでこようとする人はだいたいモラハラ系の人だったりで

 「自分は結局男の人とはムリなんじゃないか」

と自分の本来的な願望が叶わないんじゃないかという

絶望や諦観にさいなまれたり。

 

「告白してくれないかな」

と望んでおきながら

「どうせ自分は応えられないんだろうな」

と自分をあきらめていたり。

 

 

けれど

 

そんな長い長い

対人恐怖、異性恐怖等の長い道のりの果てに

ようやく

自分が本来的に望んでいる願望が叶ったなあと。

 

「自分自身のパートナー」

ができた(*・ω・*)

 

何もしていない状態で一緒にいても

それが居心地がいいなあ、と思える。

 

無理に成長し続けなくても

がんばり続けて関係を維持しようとしなくても

一緒にいて居心地がいい。

 

 

結局昔の自分が

「日本人の上位10%に入ろう!」

「成長を目指さなければ!」

「最先端のものに触れ続けなきゃ!」

「一流のものに触れ続けなきゃ!」

がんばっていたのは

安心感を得たい

承認欲求を満たしたい

というのはたしかにあったのですが

 

「そうすれば自分のパートナーができるはず」

という

思いがどこかにあったからだなあ、と。

 

いまの自分じゃだめだけど

がんばって変わったらいいパートナーができるかもしれない。

日本の上位10%に入るくらい成長すれば

自分に見合うパートナーにめぐりあえるかもしれない。

英語や多言語ができるようになれば

良いパートナーにめぐりあえるかもしれない。

 

そういう欲動に突き動かされて

ガンバッていたんだなあ、と。

 

けれど

いまの職場で

「いまの自分でも良いんだ」

「がんばらなくても幸せってあるんだ」

「がんばろうと無理していないこの人たちの方がむしろ幸せそうだなあ……」

と思うようになって

自分が変わっていくなかで

 

ようやく

自分の魂の奥底が満たされる

「自分自身のパートナー」

と一緒にいる

というところに至れた。

 

自分にとっての幸せは

小さい頃の自分が味わっていた

 

「家族で楽しくごはんを食べる」

「公園や海などで一緒に遊ぶ」

「一緒にいて同じ時間を過ごす」

 

ということだったんだなあ、と。

 

色々確執はあったし

家族との関わりで苦しみもあったけれど

結局自分にとっての幸せは

そこにあったんだなあ、と。

 

気心の知れた人と一緒にいたい。

触れ合ってぬくもりを感じていたい。

一緒にごはんを食べたい。

のんびり一緒に時間を過ごしていたい。

 

そういうところに自分の幸せはあったんだなあ、と。

 

そんなこんなの

気づきがあった昨今。

 

もちろん、完全に幸せな状態で

オールオッケー!!!

というわけではないですが。

 

ときどき

昔のことを思い出して

淡い希死念慮がさざなみのように起こったり

色々あるっちゃあ、ある。

 

でも、これが自分にとっての

幸せなんだなあ

というものがこの手の中に入ってきた。

 

そんなこんなの昨今。

 

 

では、また次回。

人に恋するというのは○○を愛そうという旅の過程にほかならない

恋愛とは愛ではなくエゴである。

 

というのは

良く聞きますが。

 

つまり

人に恋する

恋愛するというのは

自分を愛そうとする行為にほかならない。

 

恋愛に奔走する人というのは

本当は自分自身を愛することができていなくて

そんな自分で愛せない自分を

この人だったら愛してくれるんじゃないか

という期待を込めて恋をする。

 

だから恋愛というのは

自分を愛そうとする旅の過程にほかならない。

 

だから

恋愛でうまくいかない

そもそも恋愛という行為にいたれない

という人がまずした方がいいのは

自分を愛する

自分を受け容れる

ということ。

 

ダメな部分も

良い部分も含めて

これが自分なんだ。

 

自分はそれで良いんだ。

 

ダメな部分も

良い部分も含め

自分に対する安心感。

 

そんな自分が世界に存在しても良いんだ

という安心感。

 

ダメな自分も

良い自分も含めて

自分を受け容れてはじめて

 

こんなダメなところがあったって

この人にはこんな良いところがある

と人のことを受け容れることが

できるようになる。

 

けれど

ダメな部分も

良いところも含めて

自分を認めるには

 

ダメな部分も

良いところも含めて

自分を認めてくれる存在が必要。

 

そんな人とめぐりあって

はじめて自己受容ができる

という面も存在する。

 

人生の通過点でそんな人とめぐりあって

時間をかけて

この人は自分のダメなところも良いところも

受け容れて認めてくれているんだ

とその安心感に浸ることができて

 

はじめて

 

不信感を持って

批判的な目を向けていた自分という存在を

受け容れることができるようになる。

 

 

けれど

「自分のこういうところがダメだから」

「ダメな部分をこういう風に変えれば人から認めてもらえるはず」

「自分の欠点をなくして自分を変えれば世界から受け入れてもらえるんじゃ」

自分を否定しながら

自己改築に奔走する人というのは

 

自分がダメだと思い込んでいる自分の欠点を

自分で常に批判している。

過去から今にいたるまでの自己存在というものに

不信感・否定感を持っている。

 

そんな

ネガティブに自分を見ること、対応する状態に

自分自身が慣れさせているから

そういった対人関係を好んで選ぶようになる。

 

自分に厳しく叱責して

自己改築を迫ってくる人たちや

自分を追い込みながら

過剰な成長欲求を満たす道を突き進む仲間たちの輪の中が

とても居心地よく感じる。

 

人間は自分が本来的に望んでいるものよりも

慣れているものを心地よく感じる性質がある。

 

だから

自分の欠点を愛せずに批判する自己像を持っている人は

自分の欠点を批判して改築を迫る対人関係の中にいやすくなる。

自分の欠点を批判されるのは嫌だと思いながらも

慣れているからと引き寄せられてしまう。

 

それが正しいんだ、と思ってしまう。

 

けれど

本来的な欲求というのは

「ダメな部分も含めて自分のすべてを受け容れてほしい」

「ダメな部分も含めて自分を愛してほしい」

ということにほかならないのに

現実世界の自分はそれと真逆の行為にひた走っている。

 

ダメな自分を受け容れきれずに

過剰な攻撃を加えて消し去ろうとしている。

 

そうすれば

「自分という存在は愛されるんじゃないか」

という幻想に支配されている。

 

 

「ダメな部分も含めて自分のすべてを受け容れてほしい」

「ダメな部分も含めて自分を愛してほしい」

 のに

「ダメな自分を変えれば人から受け容れられるんじゃないか」

「ダメな要素を消せば人から愛されるんじゃないか」

と思い込んで

過剰に自分を成長させる環境

ダメな自分を批判して

受け容れてくれない人たちの輪の中に入ってしまう。

 

 

では、そもそも

なぜ

「ダメな部分も含めて自分のすべてを受け容れてほしい」

「ダメな部分も含めて自分を愛してほしい」

 のに

「ダメな自分を変えれば人から受け容れられるんじゃないか」

「ダメな要素を消せば人から愛されるんじゃないか」

と思い込んで

ひた走ってしまうのかというと。

 

だいたい

幼少期から続く親子関係

家族関係に起因していたりする。

 

自分がよくできたときだけ褒められたり

(逆にできなかったときは認められないという思い込みをつくったり)

自分の何かを批判されたり笑われたり

過剰に心配されて自分は心配されるようなダメなやつなんじゃないか

と思い込んだり

親が自分の子育てを喜んでやっている雰囲気を感じられず

義務的に対応しているだけなんじゃないか

と思い込むような対人態度をとられたり

 

そんな対応を繰り返される中で

自分の欠点(だと自分で思っている部分)を

受け容れられず批判するようになってしまう。

 

 

「ダメな部分も含めて自分のすべてを受け容れてほしい」

「ダメな部分も含めて自分を愛してほしい」

 のに

「ダメな自分を変えれば人から受け容れられるんじゃないか」

「ダメな要素を消せば人から愛されるんじゃないか」

 

というのは

 

自分の親に対する

「ダメな部分も含めて自分のすべてを受け容れてほしい」

「ダメな部分も含めて自分を愛してほしい」

 という欲求にほかならない。

 

けれど現実の自分と親の関係から

自分が受けた感覚というのは

「自分のダメな部分は受け容れられていない」

「自分のダメな部分は愛されていない」

というものだから

 

 

「ダメな自分を変えれば親から受け容れられるんじゃないか」

「ダメな要素を消せば親から愛されるんじゃないか」

 

と自分の欠点を批判した上で

それを改築する方向へと

ひた走るようになる。

 

その思いが変化して

「ダメな自分を変えれば人から受け容れられるんじゃないか」

「ダメな要素を消せば人から愛されるんじゃないか」

 になる。

 

親子関係が

そのまま外の世界の

対人関係に投影されやすい。

 

親から自分は

祝福されながら生まれてきたんだ

愛されているんだ

という思いが持つことができていないと

 

人の輪の中にいても

どこか孤独感が混ざったいたり

自分は世界に居場所がないんじゃないか

という孤独感を根底に持ったりするようになる。

 

世界というのは

自分の親像を投影した人間関係にほかならない。

 

 

だから

「ダメな部分も含めて自分のすべてを受け容れる」

「ダメな部分も含めて自分を愛する」

ことを自分でできるようになるためには

 

自分という存在は

「親から愛されていたんだ」

「親から愛されているんだ」

実感を持って知る必要がある。

 

それができてはじめて

自分という存在を

胸の奥底があたたかくなるような感覚も持って

抱きしめることができるようになる。

 

 

「なぜ自分をちゃんと愛してくれなかったんだ」

という孤独感やさみしさ

自覚できない怒りは

「親は完璧な存在である」

という過剰な期待感を伴った幻想に

起因していたりする。

 

(親は完璧だから)

本当に自分を愛しているんだったら

完璧に自分の気持ちを汲んで

完璧な対応をしてくれなきゃおかしい。

 

完璧に自分の気持ちを汲んで

完璧な対応をしてくれないということは

親は自分のことを愛していないんだ。

 

そんなことはない。

 

実は親もまた

安心感をともなって親から愛される

という経験をしてこなかったから

自分の子どもに素直に愛情を表現する

ということができなかったりする。

 

成熟した完璧な大人に見えて

孤独感やさみしさをともなった子どもを

いまだに自分の中に飼っていたりする。

 

 

親という存在もまた

自分と同じように完璧ではなかったんだ

と実感できるようになってはじめて

 

親のように

自分も完璧にならなきゃいけないんだ

というラットレースから脱却することができる。

 

完璧だと自分が思い込んでいる親が批判する

自分の欠点をなくして自己存在が完璧になれば

親から愛されるんじゃないか

という愛情飢餓も薄らいでいく。

 

 

完璧を目指さなくたって

あなたはあなた。

 

ダメだと思う部分があったって

それを含めてあなた。

 

そのまま世界に存在していいんだよ。

 

 

 

 

誰かにそう言ってほしくて

そう願ってやまなくて

 

人は人に恋をする。

 

恋愛とは自分に対する求愛活動にほかならない。

 

自分を愛そうとする旅の過程で

人は人に恋をする。

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浅光に浮かぶ黒い影~3年目の邂逅~

夏になると

黒い影におびえるようになる人も

そうでもない人も

こんにちは。

 

珍しく一晩家を空けてから戻る

ということがありまして。

 

がちゃ、と

扉を開けるとすぐにキッチンがみえるのですが。

 

部屋の奥に行くためにコンロまで近づくと――。

 

 

――カサリ、と。

 

 

瞬時にとらえたのは黒い影。

 

 

まさか。

 

と思って凝視していると。

 

カサカサ、カサカサ、カサカサ。

 

 

コンロをレースのように周回する

黒光りするキャツ。

 

 

瞬時に脳をかすめたのは。

 

 

一晩人間の気配がしないだけで

ヤツは現れるんだな。

 

 

固まっていると

ヤツはコンロの隙間から

どこぞへと消えていきました。

 

 

引越ししてから一度もヤツを見ていなかったので

安心しきっていたのですが。

 

やっぱり期限切れの虫よけパッドに

気づいておきながら放置していた報いがいまきたんですね。

 

部屋掃除しよう。

 

 

そう思った今日この頃。

 

 

いつのまにか自分の問題が解決していた

最近「アレ……?」

と思うことがありまして。

 

以前も書いた気がしなくもないですが

1、2年前までの自分が

「自分のこういうところダメだからもっと良くしたい」

と思っていたことがいつのまにか改善されているな、と。

 

「本で読んだ内容を要約して人にわかりやすく説明できない」

「何かのテーマに対して長く話すことができない」

などなど

「話す」

ということに対してすごいコンプレックスがあって

 

「だから自分ダメなんやぁー!!!」

「これができるようになれば自分はもっと良いはずだ!!」

と思っていて。

 

でもノートに要約して読み上げの練習したり

ラジオっぽく録音しながらやったりしてみても

うまくならなくて。

 

それがふと

一番仲の良い同僚(というか本当は先輩)と話しているとき

「あれ……私めちゃくちゃ喋っとらん?」

と気がつき。

 

ブログで読んだ内容や

本で知った知識や

自分の経験や意見、感情などを

ドーッ!っと喋っていたな、と。

 

相手が超絶寡黙で

話をじっくり聞いて相づちを打ってくれるタイプで

一番気心が知れて

 9割くらいオープンに話している人だからではあるんですが。

 

めっちゃ喋ってんな自分。

しかもめちゃくちゃ記憶思い出しながら

情報を話しているな、と。

 

以前みたいに

「何話せばいいんだろう……チーン」

「あー! うまくまとめて話せない!」

「だから自分はっ!!!」

みたいな感じがなくなっている。

 

全員に対してそれができるようになっているかというと

そうではなくって

寡黙なときはかなり寡黙なんですが。

 

 

あと、ほかにも色々変化しているな、と。

 

「これが自分はダメだからこうすればよくなるんだ」

という

今の自分否定からの

それを埋め合わせるための焦燥的な生き方が

以前は主体的だったのですが

最近は

「まあ、これが自分なのか」

と思えることが増えたな、と。

 

仕事もがんばりたくないし

ムズカシイ本読むのもそんなに好きじゃないし

だらだら昼寝するの好きだし

テキパキ家事こなさないでめんどくさく仕方なくやるし

勉強なんか好きじゃないし

資格取得のための研修もやりたくなさすぎて萎えていたし。

 

元来の性質がナマケモノ

けれど

そういえば昔からこんなだったな、と。

 

ただ、学校でヘンに優等生扱いされはじめてから

なんだか自己認識がおかしくなっていったような感。

 

「わいはもっとキラキラしとるんやでぇ!!!」

「やる気バリバリ人間やでぇ!!!」

と勘違い作動させて

無理してることに気づかず無理して

生きることに疲れていた感。

 

今が本当にベストオブ私の状態かというと

そうではないなあ、とは思うのですが

あきらかに良くなっているなあ、と。

 

今の職場に入ってからよくなったなあ、と。

自分がやりたかったわけでもなく

渋々と選んで渋々と続けていたら

その過程の中で色々自分が変化して

 

昔コンプレックスだったことが

いつのまにか溶かされてよくなっている。

 

不思議フシギふしぎちゃんです。

 

 

では、また次回。

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他人を傷つけても平気な人というのは

もう本当に傷ついた

という経験が

ある人も

ない人も

こんにちは。

 

パイの実みたいなアレのマイブームが

おわった管理人です。

 

 

なんで人に対してこんなひどいことが

平気でできるの?

って思う人がいますが

 

凶悪犯だったり

犯罪とまではいかないレベルの行為だったり

色々幅はあり。

 

そういう人たちに共通していることは

「自分自身が傷ついていることに気がついていない」

んだそう。

 

だから人にひどいことをしても

罪悪感が湧かない。

 

そもそも自分が傷ついているということが

認知できていないから。

 

だから、そういう悪いことをした人に対して

最初にやった方がいいことというのは

 

「自分自身が傷ついている」

ということを自覚させて

それを噛みしめさせること

なんだそう。

 

過去に親からされた

何気ない言葉だったり行動だったり

学校でのいじめだったり

ちょっと無視されたことだったり

人から高圧的にものを言われた経験だったり。

 

そういうのを

「ああ、嫌だったなあ」

「本当に傷ついたんだけど」

「本当になんなんやアイツはー!!!」

みたいに

感情を味わえる状態ならいいけど

 

「いまさらこんなことほじくりかえしても」

「いい年して」

「男なんだから」

「立場があるんだから」

「そんなナヨナヨした自分なんか自分じゃない」

 と抑え込んで

 

自分を守るために

感情に蓋をしたり

生活を維持するために

何も感じないように無意識に抑圧したり。

 

そういう風に

感情を鈍らせてしまった人。

 

「自分は本当はすごくあのとき傷ついていたんだ」

と自覚できるようになると

自分がした行為に関しても

「あのとき自分は人を傷つけたんだ」

と自覚できるようになっていく。

 

「自分は傷ついていたんだ」

と自覚できない状態での反省の強要は

反発的な行為を助長させることにしかならないんだそう。

 

 

だからといって

「この人もかわいそうな生い立ちがあるんだから」

と自分自身がひどいことをされても我慢し続ける

というのは健全じゃない。

 

いうことをいままでしてきたので

まず最初は

「自分自身の感情を味わいきること」

をやっていこう、と。

 

それをやる前に

「この人にも事情があるに違いない」

なんてやったら

自分が搾取されたり食い物にされる。

 

自分がされて嫌なことをちゃんと伝えなきゃ

自分のこと守れないし

それで関係が壊れる仲ならもうそこまでの縁だよなあ、と。

 

 

「なんでこんなひどいことできるの?」

って思う人に出会ったことが多々ありますが

 

そういうときに自分も感じていたのは

「この人の幼い部分がすごい傷ついて

満たされていないんだなあ」

ということだったり

「この人こういう感情表現がストップしてない?」

ということだった。

 

だから

憎しみを感じながらも

「すごいこの人かわいそうだな」

「なんとか救われる道はないのかな」

なんて思うこともあるんだけど 

 

つまるところそれは

自分に対する思いなのかな、と。

 

どこかで過去の自分を重ねていたり

いまの自分自身を投影してみているような感覚になったり

しなくもない。

 

だから

「この人かわいそうだな」

「なんとか救われないかな」

っていうのは

本当は自分自身に対しての思いなのかな、と。

 

 

過去の自分のことを思い返すと

やっぱり

「かわいそうだな」

「もっとこうだったらよかったのにね」

と思ってしまう感はある。

 

過去の自分に対して

優しい言葉をかけることをしていくと

いまの自分ももしかしたら

救われていくのかもしれない。

 

過去の弱くて情けなくて恥ずかしい

と思う自分も許せるようになったら

人にも優しくできるようになるのかもしれない。

 

 

そう思った。

 

 

ただそれだけ。

 

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自分のことを丁寧に扱う、大切にする

自分のことを

大事にしたいなーと思う人も

もうできてるんとちゃうー?

と思う人も

こんにちは。

 

ええ空気やな、と

日差しを浴びている時間が好きな管理人です。

 

 

先日、電車にのったとき

最初は立っていたのですが

ふと席が空いていることに気がついて

「やったー! ラッキー!!!」

とそこに座りました。

 

けれど

近くに立っている女性二人が

「仕事だったらこうしろって感じじゃない?」

と誰かのことを話しているのに気がつき。

 

瞬間的に

「うわ……ヤダな……」と思い

次の駅に着いた途端に

外に出て別の車両に移動。

 

そこでは立ったままだったけれど

近くで愚痴っぽい話を聞く方が

何千倍も自分は好きじゃない。

 

「自分の心の声に従うことができた

「やったね自分」

とほめる。

 

最近は職場でも

嫌なことがあると心の中で

音声化したらまずいような叫びを上げて

発散するようになり。

 

「ここまで叫んでも怒りがおさまらねえぞ!!!!」

ってとこまでやったら

そのあとスゥ……と静まる。

 

「自分ってここまで内側に激しい怒りを抱えていたのか……」

というくらいに激しい叫びが心の中で起こる。

 

これを日常的に抑えていたら

それはパタンキューするよな、と。

 

一回の出来事に対する怒り具合がハンパなくて

自分で客観的に観測してると笑ってしまうくらい。

 

 

先生からは

 

「素直に自分の感情を感じ切る

怒りの感情を味わい尽くせば

ふとしたときに急激な怒りに襲われて抑えられなくなる

って状態もだんだんよくなってくると思うよ」

(本当の怒りの対象じゃない人に

怒りの感情を感じてしまう、ぶつけてしまう投影現象)

 

 

元々こんなに怒りが激しいタイプだったのか

それとも

10年以上に渡って感情を抑えていた結果

そのたまりにたまったものが噴出しているのか

わからないですけれど。

 

 

いまのこの状態と比較すると

去年の自分は心がすごい止まっていたんだな、と。

 

あきらかにいまされたら

すごいショックだし

「ふざけるなよ!!!」と

怒りでわなわな震える場面でも

「何も全然感じないのになんで私泣いてるのかなー」とか

「別に私は何も感じないからそんな心配しなくてもいいのに」

という状態だった。

 

ツーウーさんもよくなって

メンタル状態よくなったぞ、と思っていても

ふとしたときにガァッとネガティブな感情に襲われて

「死にたい……」

「自分なんかいない方がいいんじゃないかな……」

となっていたから

けっこう心の状態は

ヤーバーババイな感じだったのかな、と。

 

 

小さい頃から感情の抑圧が強かったので

そもそも自分のネガティブな感情を感じ切る

味わいきるという経験自体があんまりなかった気が。

 

あと、成長してからも

下手に心理の知識をつけて

「いまこういう怒りを感じているのは、こういう状況だからか?」

「ここを良くすれば感情がおさまるかな」

といったように

ネガティブな感情に対してだけ

理性で対応していた。

 

感じ切る

味わい尽くすのは

ポジティブな方だけで

ネガティブな方は

味わうことをしてこなかった。

 

感情は無視すると

「気づいてよ!」

どんどん声を大きくして

自分の存在を見てもらおうとする。

 

だからネガティブな感情だけ無視していると

ネガティブな感情がどんどん

「気づいて!!!」

と声を大きくしていく。

 

「なんで私の話聞いてくれないの?」

「なんでわかってくれないの?」

「どうしてそんなひどいことするの?」

 

と気づかないうちに自分でやっているから

無意識にそういう対人関係の中に

身を置きやすくなってしまうんだろうな、と。

 

人は自分が良いと思うもの、望むものよりも

自分が慣れているものに引き寄せられてしまう。

 

普段自分のネガティブな感情を無視しがちな人は

「疲れたな」

「悲しいな」

「ひどくないそれ?」

と自分が思ったとき、伝えたときに

それを受け止めてくれない人と関わりやすくなってしまう。

 

自分ではそんな人よりも

ちゃんと優しく受け止めてくれる人が良いって思うのに

24時間一緒にいる自分が

自分のネガティブな感情を無視する対応しがちだから

ネガティブな感情を無視する、見ないようにするのに慣れている。

だからそんな慣れた対応をしてくる人の方が

居心地がよく感じてしまう。

 

 

自分で

ネガティブな感情も含めて自分を味わう

(=大切にする、ちゃんと見るようにする)

そうじゃない対人態度をとってくる人と話していると

「やだなこの人~……」

となってスッと離れるようになりはじめた。

 

昔は

「でもそんなことすると相手に悪いかな……」

と思って我慢して居続けましたが

 

我慢するってことは

「自分の感情をないがしろにして周りを優先する」

ってことだから

自分のことをないがしろにしてくる人といやすくなるし

 

周りの人間も

「この人こういうの嫌がらない人なんだ」

「この人こういうときこういう対応するから平気なんだろうな」

と思って悪気がなくても

そういう対応をしてしまう。

 

自分のことを大切にする(丁寧に見る)

というのはすごい大事になってくるな、と。

 

 

「なんでも自分勝手に振舞えばええんやー」

って感じだと

周りから嫌がられて煙たがられる

とは思いますが。

 

 

**********

 

周りのものを丁寧に扱ってみると

丁寧にものごとが見えるようになる。

 

丁寧に周りのものを扱おうとすると

自然と自分の手先から丁寧な見方が広がっていく。

いままでいかに自分の体を丁寧に扱っていなかったかに気づく。

 

外側を丁寧に扱っていくようになると

今度は自分の内側にも意識が向かっていく。

 

丁寧に見よう、扱おうとすると

いかにいままで自分のことを

丁寧に扱っていなかったのかに気がついていく。

 

ちょっとでもいいから丁寧にものを扱おうとしていくと

だんだんと丁寧に扱えるものが増えていく。

 

 

のかもしれない。

 

 

では、また次回。

 

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